み言葉のいづみ
主を待ち望む者
千代崎備道
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
(イザヤ四十章31節)
去年の教会標語は「聖徒は、みな祈ります」で、コロナ禍にあって祈る一年でした。今年、例え試練が続いたとしても、神様からの希望をしっかりと受け止めて歩んでまいりましょう。
イスラエルが南北に分裂し弱体化したため、北のイスラエル王国がアッスリヤによって滅ぼされた時代に、遺された南のユダ王国も不信仰の故に裁かれる日が必ず来る、と預言したのがイザヤです。ところが40章から、滅亡の先にある回復、すなわち裁きの後に救いが来るという希望が語られます。「希望的観測」のように現実の困難を見ない楽観主義は本当の希望ではありません。苦難や試練があっても、神様を信頼して将来の救いを希望を持って待つのが「主を待ち望む者」です。
この希望は御言葉に拠ります。神様の言葉を信じなくなったら、将来の希望も消え失せていきます。30節の「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる」を、口語訳聖書は「年若い者」と「壮年の者」と訳しています。一番力のある壮年も、将来がある若者も、倒れる時があるのです。健康に自信がある人が思わぬ病気や怪我を受けることもある。予想もしていなかった状況になり、さらに悪化して行く。そんな時に、「だから、もうダメだ」と言うのではなく、「しかし」と言って神様を信頼して立ち上がり、神様の御言葉の約束を信じるのです。そのとき、今までの力は失われても、神様からの新しい力が与えられるのです。
「希望」とは、何を期待するのでしょうか。それは「主を待ち望む」のです。何か良いことが自分に起こることを願うのではなく、神様ご自身を待つのが真の希望です。願っていた良いことが実現しても神様から見放されてしまうのでは希望はありません。願った通りにならなくても神様が共にいてくださり、私の味方となってくださるなら、大丈夫です。イザヤ書七章には「インマヌエル」(神我らと共に)と書かれています。それはキリストにおいて成就した預言です。神様ご自身が来てくださることが本当の救いなのです。
コロナ禍が始まって一年、忍耐にも疲れが出てきます。でも、私たちの希望の源泉であるお方、主イエス・キリストご自身こそ、無くならない希望だという、この御言葉の約束を何度も確認し、信仰を強められ、希望を持って歩む年としていただきましょう。
(元旦礼拝より)

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