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み言葉のいづみ

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主を待ち望む者

2021-01-01

千代崎備道


しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

(イザヤ四十章31節)

 

去年の教会標語は「聖徒は、みな祈ります」で、コロナ禍にあって祈る一年でした。今年、例え試練が続いたとしても、神様からの希望をしっかりと受け止めて歩んでまいりましょう。

イスラエルが南北に分裂し弱体化したため、北のイスラエル王国がアッスリヤによって滅ぼされた時代に、遺された南のユダ王国も不信仰の故に裁かれる日が必ず来る、と預言したのがイザヤです。ところが40章から、滅亡の先にある回復、すなわち裁きの後に救いが来るという希望が語られます。「希望的観測」のように現実の困難を見ない楽観主義は本当の希望ではありません。苦難や試練があっても、神様を信頼して将来の救いを希望を持って待つのが「主を待ち望む者」です。

この希望は御言葉に拠ります。神様の言葉を信じなくなったら、将来の希望も消え失せていきます。30節の「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる」を、口語訳聖書は「年若い者」と「壮年の者」と訳しています。一番力のある壮年も、将来がある若者も、倒れる時があるのです。健康に自信がある人が思わぬ病気や怪我を受けることもある。予想もしていなかった状況になり、さらに悪化して行く。そんな時に、「だから、もうダメだ」と言うのではなく、「しかし」と言って神様を信頼して立ち上がり、神様の御言葉の約束を信じるのです。そのとき、今までの力は失われても、神様からの新しい力が与えられるのです。

「希望」とは、何を期待するのでしょうか。それは「主を待ち望む」のです。何か良いことが自分に起こることを願うのではなく、神様ご自身を待つのが真の希望です。願っていた良いことが実現しても神様から見放されてしまうのでは希望はありません。願った通りにならなくても神様が共にいてくださり、私の味方となってくださるなら、大丈夫です。イザヤ書七章には「インマヌエル」(神我らと共に)と書かれています。それはキリストにおいて成就した預言です。神様ご自身が来てくださることが本当の救いなのです。

コロナ禍が始まって一年、忍耐にも疲れが出てきます。でも、私たちの希望の源泉であるお方、主イエス・キリストご自身こそ、無くならない希望だという、この御言葉の約束を何度も確認し、信仰を強められ、希望を持って歩む年としていただきましょう。

(元旦礼拝より)

祈りのゴール

2020-12-01
千代崎 備道  
 
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。
(ルカの福音書一章38節)
 
今年は教会の標語として「聖徒は、みな、あなたに祈ります」(詩篇三十二篇6節)を掲げ、『いづみ』でも祈りについて書かせていただきました。祈ることは、今年で終わりではなく、これからも続けるべき、大切なことです。聖書の中にも祈りを教えたり命じたりする御言葉が多くあります。クリスチャンにとって一生が祈りであり、最後までできる奉仕は祈りです。神様とのいのちの通った交わりは祈りと御言葉であり、それは天国にまで続いています。
個々の祈りは、どこまで続けたら良いのでしょうか。神様が祈りを聞き入れてくださり、願っていたことが実現するまで、でしょうか。求めていたものが与えられた感謝の祈りが最後でしょうか。
冒頭の御言葉は、昨年の教会の標語でもありますが、マリヤが天使に語ったことばです。神様からの言葉への応答ですから、これも祈りの言葉です。マリヤは信仰深い女性でしたから、普段から祈っていたでしょう。特にこの頃はヨセフと婚約中であり、結婚に関して祈り続けていたはずです。幸せな結婚生活、良い夫婦関係など、祈りの課題が挙げられます。でも神様からの応答は、彼女が全く予期していないことでした。結婚する前に身ごもること、しかも聖霊により神の子と呼ばれる赤ちゃんを産むこと。とても簡単に受け入れられることではありません。でもマリヤは「御言葉どおりに」と祈りました。
この言葉について『虹色の落ち穂』(千代崎秀雄著)で、「水の入ったビンを逆さにすると、ゴボッゴボッと、つっかえながら水が出てくる」ようだったろう、と書かれています。スラスラではなく、やっとの思いで祈ったのです。それは、自分の願いや思いよりも神様の御心を最優先にすることであり、そのために自分を犠牲にしても御言葉に従う祈りでした。イエス様がゲツセマネで祈った祈りと同じです。
私たちの祈りも、願いが叶うことが最終目的ではありません。神様の御心が実現すること、そのためには自分の願ってきた祈りでさえも明け渡して、神様の言葉に従う信仰となること。それは私もキリストと同じ思いとなることです。お一人お一人の祈りはこれからも続きます。それは自分の願いをどこまでも押し通すためではなく、何時の日か、神様の御心に沿う者となるまで続くのです。「みこころが地にもなりますように。」

祈りの場所に進み行く

2020-11-01
千代崎 備道
 
祈りを聞かれる方よ。みもとにすべての肉なる者が参ります。
咎が私を圧倒しています。しかし、あなたは、私たちのそむきの罪を赦してくださいます。
(詩篇六十五篇2~3節)
 
すべての肉なる者、それは全ての人です。肉は単に肉体のことを指すだけでなく、人間の弱さも意味します。その弱さ故に罪を犯してしまう。しかし神様はその罪を赦してくださる、と3節は語ります。ですから、全ての人は御前に進み出て祈るのです。祈りを聞いてくださるお方のところに。そのお方はどんな祈りでも耳を傾けてくださる。だから安心して祈ることができるのです。
長く祈った経験があるでしょうか。私は子供の頃、当時は新年聖会は聖書学院で行われ、二泊三日の泊まりがけでした。聖会中、一つの部屋が祈祷室とされ、二十四時間祈ることができました。洗礼を受けた小学六年生だったと思います。自分もクリスチャンになったのだから祈ってみようと思い、祈祷室で祈り始めた。憶えている限りの祈祷課題を端から祈り、もうこれ以上祈ることが思いつかなくなって、時間を見たらまだ30分も経っていない。大人のクリスチャンはよくあんなに長く祈れるものだと感心した記憶があります。欧米の有名なクリスチャンの逸話ですが、毎日祈りの時間が合って、家の召使いに「これから一時間祈るから、時間が来たら教えて欲しい」と頼みました。召使いが一時間たって部屋に行くとご主人はまだ祈っていて、その雰囲気があまりにも聖かったので、彼はもう一時間経ってから声をかけた。するとご主人は、「もう一時間経ったのか。時間が過ぎるのは早いな」。
今でも私は長く祈るのは苦手かもしれません。でも時間の問題ではありません。神様に祈るときが自分にとってどんな時でしょうか。義務や習慣で、早く終わって欲しいのか、それとも、もっと祈っていたいような、神様との大切な一時なのか。たとえ短い時間しか祈りの時間が取れなくても、神様との交わりが豊かな一時であるようにと願います。神様は私たちが祈るために身許に進み行くことを待っておられるからです。
今、コロナ禍にあって友人と過ごす時間が減ったかもしれません。反対に、テレワークなどで家族と過ごす時間が増えた人もいるでしょう。生活のスタイルや時間の配分が変わってきています。その中で神様との一時を大切にできたなら幸いです。今日も神様のところに参りましょう。神様は私たちの祈りを聞いてくださるお方だからです。

その場所で祈る

2020-09-01
千代崎 備道
 
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。--主の御告げ--それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを探し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
(エレミヤ書二十九章11~13節)
 
バビロンに連れて行かれた民に神様が預言者エレミヤを通して語られた言葉です。彼らはすぐにでも帰国できると楽観視し、そのために祈っていました。ところが神様は「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ」(7節)と、バビロンのために祈るように命じるのです。それは彼らの帰国はすぐではなく七十年後だったからです。それを聞いた民はがっかりするかもしれない。それに対して神様が語られたのが冒頭の言葉です。神様の計画は神様がご存じで、それは平安を与え、将来と希望を与えるためだと言うのです。
私たちは長い「コロナ禍」の中にいます。いつ終わるのかはまだ分かりません。すぐかもしれないし、来年以降かもしれない。教会に来ることが難しい方々がどれほど寂しい思いをしておられるでしょう。でも、私たちはお互いのために祈ります。今いるその場所で神様の恵みがあるように。そして神様が私たちにも最善の計画をもって導いていてくださることを信じることができるように。
神様はどこにいても、そこで祈る民に、「わたしはあなたがたに聞こう」と約束し、神様を求めて祈るなら「わたしを見つける」と励ましておられるのです。教会に来て神様の恵みを知ることも素晴らしいですが、今置かれている場所にも神様が共におられることを見つけることも何と素晴らしいことでしょうか。家庭やホーム、あるいは病院にいて、自由な外出ができない人も、その場所が神様を知り、神様と交わりをする場所となるのです。だから私たちは御言葉を読み、祈るのです。
一日も早い終結を願うと共に、どのような状況になっても、一人一人がしっかりと信仰を持ち続け、遠く離れていても祈り合い、声を掛け合う神の家族であることを信じています。そして、全員が教会に集まる日が来たとき、心を尽くして主を礼拝し、力一杯賛美の声を上げる日を待ち望み、今日も「その場所で祈る」神の民でありましょう。

 

教会を立てあげる祈り

2020-08-01
千代崎 備道  
 
あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
(コリント人への第二の手紙一章11節)
 
使徒パウロは一世紀の地中海世界を周り、各地に教会を立てあげました。パウロは一つの町に到着すると、最初はユダヤ人、そして異邦人たちにも福音を伝え、それを信じた人たちにさらに聖書を教えて信仰を確立していきました。パウロが次の町に向かった後は、彼らの中から指導者が立てられ、その人たちを中心にして、さらに聖書を学び、信仰が成長し、自分の周囲の人にも福音を証しするようになり、クリスチャンが増えていった。それが教会の成長です。
それはパウロだけの働きではありません。多くの協力者がいました。そして直接は伝道をすることが出来ない人たちも祈りによってパウロに協力していったのです。パウロを送り出したアンテオケ教会の祈り、パウロと仲間たちが各地の教会のために祈り、そしてどの教会でもパウロたちの働きのため祈りが続けられていき、その祈りに神様が応えてくださり、信じたクリスチャンたちの信仰が健全に成長できるように、御言葉を理解出来るように助けてくださったのです。教会は祈りにより立ち上げられるのです。
今も、多くの祈りが教会のために捧げられています。離れている信徒の方たちのために祈り、病床に伏している方たちのために祈り、苦悩の中にいる人たちのために祈っています。信徒が牧師のために祈り、信徒が牧師のために祈り、自分たちだけでなく他の教会のためにも祈りが捧げられています。聖書学院のために、修養生たちのために祈ってくださり、卒業した牧師たちにより各地に福音が広げられていく。そして、神様が祈りを聞いてくださり、素晴らしい御業がなされたことを知り、感謝を捧げるようになる。これが神様の計画です。
池の上教会でも祈りが捧げられています。今はインターネットを用いての祈祷会が行われ、参加できなかった人も一緒に祈ることができるようになりました。新型コロナのために出来ないことも多々ありますが、祈りを妨げることはできません。教会の集会に行くことができない時間を用いて、祈りの時を持ってくださる方が増えるなら、ますます祈りが強められて行きます。特伝やコンサート、ランチョンなどの形では伝道する事が難しいとしても、祈りが突破口となります。神様が働いてくださり教会が成長し、信仰が強められ、証しが広められるように、ご一緒に祈ろうではありませんか。

 

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
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