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み言葉のいづみ

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諦めずに祈り続ける

2020-07-01
千代崎 備道
 
いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。 
 

(ルカの福音書十八章1節)

 

イエス様の教えられた譬え話とは、悪い裁判官に訴え続けるやもめの話でした。最後は裁判官も根負けして彼女の願いを取り上げてくれるのですが、この酷い裁判官が何の得にもならない彼女のために良いことをしようと思うまでには、よっぽどの回数、彼女は訴え続けたのだと思います。そして、何度、裁判官から辛辣(しんらつ)な言葉で追い返されたか。酷いことを言われて、くじけそうにもなったでしょう。半分諦め、でもまた気を取り直して訴えに行く。「絶えず祈りなさい」とは、そういうことです。もちろん神様は悪い裁判官ではありませんので祈りを聞いてくださいますが、その結果が出るまでは神様のご計画とお考えがありますので、時間がかかることはあります。その間、祈り続け、諦めない。途中で何度もくじけそうになり、諦めたくなるほどに辛いときもある。でも失望しないで祈り続けるのです。
どうせ祈りに応えてくださるなら、早くしてくださったら楽なのに、と思うかもしれません。でも、もし私たちに祈ること自体が必要であり、祈りを通して学ぶことや成長することがあるなら、神様は私たちを祈り続けるように導かれるのです。
私の好きな聖歌五五六番(新聖歌では歌詞が変わってしまいました)「祈りすれど手答えなく」という歌があります。
いのりすれど手答え無く、求むれど得ずして、重き心抱き続け、苦しむは誰ぞや。汝が持てるものを主の手に、ことごとく捧げしや。条件すれど降伏せば、勝ちうべし勝利を。
古い言葉なので若い方には分かりづらいかもしれません。でも祈っても手答えが無い。重い心で苦しみながら祈ることは、誰でも経験することがあるでしょう。それでも祈り続けるとき、神様が示されるのは、祈りを妨げているものが、他でもない、私の心の中にある。それは自己中心な願いかもしれない。神様の御心よりも自分を優先したい思いかもしれない。それを条件をつけないで神様に委ねるとき、神様は最善のことをしてくださる。諦めずに祈り続ける中で、神様は私たちの心を造り変え、状況を整え、何よりも神様のなさることを信頼する信仰を強めてくださるのです。
最初の譬え話で、おどろくべきことに、やもめは裁判官が必ず訴えを取り上げて、その結果、自分を苦しめている相手から守ってくれる、と信じていたのです。私たちは神様をもっと信頼して、祈り続けましょう。

 

山を動かす祈り

2020-06-01
千代崎 備道
 
まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海に入れ」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言った通りになると信じるなら、そのとおりになります。
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。 
 

(マルコの福音書十一章23~24節)

 

祈りについての教えの中で、最も力強い約束です。何でも、山を動かすほどのことでも、信じて祈るならそのとおりになるのです。もちろん、祈るたびに山が動くと社会が混乱しますから、何を願うかは大切です。また、欲望の赴くままに求めるなら、与えられた人は貪欲の罪により滅びに向かってしまいます。間違った求めは神様が愛をもって止めなさいます。何が神様の御心に適うかも問われます。コロナ禍により社会が混乱し、教会も苦しい状況に置かれています。私たちは今、何を祈り求めたら良いでしょうか。もちろん皆が守られるようにも祈りますが、では山を動かすほどの求めとはどんなことでしょうか。
多くの教会で密集して集まることができず、分散しての集会やインターネットの利用などの工夫をしていますが、親しい交わりが出来ずに寂しく感じる人も多いでしょう。以前の状態に戻ることを期待していますが、治療方法が確立していない今は、注意をしながら教会の働きをすすめなければなりません。多くの人に呼びかける伝道も困難です。もう教会は前進できないのでしょうか。
キリスト教の歴史を顧みるなら、1~3世紀の教会は、ユダヤ教から始まり異邦人世界に宣教が進む中で、どのように聖書の真理を伝えるか苦労しました。厳しい迫害と多くの異端に苦しめられる時代でしたが彼らは信じ続け、神学が発展してキリスト教の土台が確固たるものとなり、ヨーロッパ宣教が前進しました。中世には形骸化のためカトリック教会が行き詰まったときに宗教改革が始まり、信仰の刷新と世界宣教が進むようになりました。何時の時代も、キリスト教は行き詰まるたびに、活性化して、新しい働きが始まり、止まっていたのが前進するようになってきたのです。
今、私たちも行き詰まりがあるかもしれません。でも神様の御業は止まられることはありません。必ず新しい働きを始めてくださるのです。その働きのために祈りましょう。神様が祈りに答えて、大きな山を動かして、今までは伝道できなかった人にも救いが与えられるようになることを信じて、祈り求めようではありませんか。

 

遠く離れて祈る

2020-05-01
千代崎 備道
 
神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。  
 

(エゼキエル書十一章16節)

 

預言者エゼキエルが活動したのは、バビロン帝国によりエルサレム神殿が破壊され、生き残った人々はバビロンに捕囚となって連れて行かれた時代です。当時の人にとって礼拝とは神殿で犠牲の動物を捧げることでしたから、遠く離れたバビロンでは礼拝が出来ませんでした。でも彼らは聖書を学び祈ることで神様への礼拝を捧げていくようになります。これが神殿ではなく、会堂での礼拝となり、新約時代のユダヤ教、さらに後のキリスト教会にも引き継がれていくスタイルとなります。イスラエルにとっては、大きな時代の変換点でした。
今、私たちも世界の歴史において大きな転換点にいるのかもしれません。コロナ禍はいつか落ち着くときがくるでしょう。でも「のど元過ぎれば熱さ忘れる」ではなく、これを教訓として、将来の感染に備えることを覚えていかなければなりません。教会も、一緒に集まることができない時期が起こりうることを学びました。教会の歴史を学ぶとき、時代の状況に対応して礼拝のスタイルは変化してきました。これからも変化はあるでしょう。いえ、変化しないなら、それは生命力が弱くなり衰退してしまいます。個々人も同じ所に止まろうとするなら成長が出来ません。しかし、その変化は、信仰の本質を変えてしまうことではありません。
冒頭の御言葉は、遠いバビロンで祈りを捧げている人々に神様が語ってくださった言葉です。神殿で祈れない、動物を捧げることもできない、そんな自分たちの祈りを聞いていただけるか、不安になっていた信仰者たちに、神様は、ご自身が一緒におられることが神殿の本質であって、どこにいても共にいてくださる神様に祈ることができることを約束してくださったのです。
私たちは緊急事態と外出自粛という状況の中で、「しばらくの間」ですがインターネットと郵送による礼拝というスタイルを採用しました。これまでの教会堂での礼拝とは異なるために、不足や不便もあります。でも、離れていても主が一人一人と共にいてくださり、そのお方に賛美と祈りをささげ、神様からの御言葉に聞き従うことに変わりはありません。もちろん、教会に集まることを一切やめることはありません。でも、いつどのような時でも、困難な中でも神様が共にいてくださる恵みを忘れずに、信仰をもって歩んで行きましょう。

 

待ち望む祈り

2020-04-01
千代崎 備道
 
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。     
 

(ルカの福音書二章25節)

 

旧約聖書の時代と福音書の時代の間には、数百年の期間があり、「中間時代」と呼ばれています。この時代に世界の支配者はペルシャからギリシャ、そしてローマへと移り変わって行き、バビロン捕囚から帰ったイスラエルの民は時の支配者に翻弄されます。ある時は暴虐な王により宗教的な迫害を受け、多くの信仰者が殺されました。ユダヤ人と呼ばれるようになった彼らは、神様が預言者たちを通して約束された、イスラエルを救うメシア(救い主)が来ることを強く願うようになり、特に信仰深い人々は数百年の間、祈りつつ待ち望んだのです。その中にルカ二章に登場するシメオンや女預言者のアンナも含まれます。シメオンは祈りの中で聖霊が心に示してくださり、必ずキリストを見ることができると信じ、そして救い主としてお生まれになったイエス様にお目にかかることができました。その後、多くの人がイエス様と出会います。中には反対者もいましたが、救い主を待ち望んだ人たちは喜びに与ったのです。
今、世界はウイルスにより大変な状況に陥っています。戒厳令のような状態の国や町もあり、日本も自粛要請により普段とは大きく違う生活となった人が少なくありません。医療関係者を始めとした「最前線」で働いている方々は文字通り命の危険を感じながら過ごしています。老人ホームの高齢者は家族との面会も出来ずにおります。子供たちは友達と会って元気に遊ぶことも出来ません。いつ終わるか分からないような不安の中で辛い思いで生活をしている人にとって、今はまるで暗闇の時代です。
教会も同じです。池の上教会も、また多くの教会で集まることが出来ない状況が続いています。礼拝と交わりを愛する信仰者にとって、どれほどの心の苦しみとなっているでしょう。そのような中で信仰を失わず、必ず喜びの日が来ることを待ち望んで歩むために、私たちは祈ります。家族と自分の心と体が守られるように、周囲の人に対して愛を持って接することが出来るように、離れている兄弟姉妹のために、厳しい状況の中で働いている方々、特に医療に携わる方々のために、私たちは祈り続けます。「聖徒は、みな、あなたに祈ります」。聖霊は祈る人と共に働いてくださり、信仰と希望を増し加えてくださるお方です。必ず神様は喜びの日を迎えさせてくださることを信じて祈りましょう。

聖徒のための祈り

2020-03-01
千代崎 備道
 
ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。      
 

(ローマ人への手紙一章7節)

 

『ローマ人への手紙』を始め、使徒パウロの書いた手紙のほとんど、そして他の使徒の書いた手紙でも、書き出しの部分には挨拶の言葉として、教会の人々の上に神からの恵みと平安を祈る言葉が含まれています。それは当時の手紙の習慣でもありましたが、聖書は単なる習慣だから形だけ書いているのではなく、この言葉が真実な祈りだったことを教えています。
手紙が書かれた起源1世紀後半にもいくらかの迫害がありましたし、パウロ自分も何回か命を落としそうになったことを語っています。この手紙が各地の教会に回し読みされ、やがて新約聖書の一部分となっていった2世紀から3世紀にかけては、教会はまさに大迫害の中に置かれていました。彼らにとって、これらの手紙から学んだ、恵みと平安を祈る祈りは、真剣な、そして彼らの信仰を励ました祈りだったことでしょう。
今年の初めには考えてもみなかった事態が日々進んでいます。新型コロナウイルスの感染の広まっている中で、病気自体の大変さと共に、国全体が、また世界各地でも、人々の心は不安でいっぱいになっていることも、状況を混乱させています。不安を抱く要素はいくつもあるでしょうし、その不安をさらに煽り立てる報道や情報が行き交い、中には混乱に乗ずる悪意もあります。ですから落ち着いて行動することが大切です。その一つは、祈りによる生活です。
私たちが祈るのは、単に自分の願いを実現するための手段ではありません。時には思ってもいなかった結果になるとしても、神様に委ねて信頼するとき、神様から「人知ではとうてい測り知ることの出来ない神の平安」(ピリピ四7、口語訳)が与えられる恵みがあるのです。祈りは聖徒と神様を結びつける祝福の手段です。
迫害下のクリスチャンたちは、無事を祈っても、それでも殉教することがあったでしょう。でも、処刑される時でも彼らの平安は失われなかった。その姿が信仰の証となり、さらに多くの人たちがキリストを信じるようになったのです。これが神様からの平安です。今の私たちにも必要な恵みではないでしょうか。
牧師たちの祈りは今も変わりありません。池の上教会に連なる全ての方々、主の聖徒たちの上に、恵みと平安がありますように。

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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