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み言葉のいづみ

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前を進まれる神

2017-08-01
千代崎 備道
 
 主は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。
(出エジプト記十三章21節)
 
イスラエルの民を導くために、神様は昼は雲の柱、夜は火の柱の内におられ、民の前を歩まれました。エジプト軍の追撃という危機的な状況の時は雲の柱は民の後ろに移って軍隊から彼らを守ってくださいました。雲の柱が前進する時は民はそれに従って前進し、雲の柱が留まる時は民はそこに宿営します。こうして荒野の旅の間、神様がイスラエルの前を歩まれたのです。
この雲の柱は、単なる道しるべや先導役なのではなく、神様が共に歩んでくださることを表しています。ですから雲の柱を見るならば、神様がそこにおられることが分かるはずですし、またエジプトから救い出してくださり、約束の地にまで導いてくださる神様のご計画を信頼することも出来るはずです。それなのに人々は何度も神様に背き、時には偶像礼拝を行ったのは、驚くべき不信仰です。恐らく彼らは、雲の柱を見ても慣れっこになってしまい、神の臨在を感じなくなってしまったのでしょう。
私たちの生涯にも神様は様々な姿で「雲の柱」となって導いていてくださいます。時には誰かを通して導きを示し、時には御言葉によって道を示し、時には色々な出来事を用いて間違った道であることを教えたり、正しい道を進む信仰を強めてくださいます。ところが、その導きに鈍感になるなら、すぐに自分の思いが優先し、自分の力で道を切り開いていると誤解し、御心に沿わない道を進むようになってしまいます。ついには信仰が停滞し、荒野をさまようようになるかもしれません。しかし神様は荒野の四十年の間もイスラエルを見捨てず、彼らの旅路を導いてくださったのです。人々が不信仰に陥っても、神様は前進し続けてくださった。ですから、彼らは約束の地にたどり着くことができました。私たちのためにも神様は前におられ道を進んでいてくださるのです。自分の進むべき道が見えないとき、神様に心を向け、細き御声に耳を傾け、これまでの道を守ってくださった神様を信頼するなら、神様が共におられ、私たちはこのお方に従うべきことに気が付かされます。
人間には一歩先のこと、明日のことも分からないのです。自分でこれが確実な道だと思っても事態は急変します。でも変わらずに導いてくださる神様を仰ぎ、信仰を持って一歩ずつ前進しましょう。

前進できない時に

2017-07-01
千代崎 備道
 
 なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真ん中のかわいた地を進み行くようにせよ。
(出エジプト記十四章15~16節)
 
私たちはこの結末を知っていますが、この時の人々はまさか海が分かれて歩けるようになるとは夢にも思っていませんでした。ですから彼らには絶望的な状況しか見えていませんでした。目の前は海で、もう一歩も前には進めない。後ろからはエジプト軍が迫ってきている。逃げ場が無いと思った彼らは、神に向かって叫び、モーセに文句を言いました。その時、神様が語ってくださったのです。
教会は何度も絶体絶命のような危機を通ってきました。最初の教会は大迫害のためにエルサレム教会は壊滅状態になりました。教会の指導者であった十二弟子のうち、主要な三人(ペテロとヤコブとヨハネ)の一人であるヤコブが殉教し、ペテロも捕らえられました(使徒の働き十二章)。パウロは何度死にかけたか分かりません(第二コリント十一章23節以降)。しかし、そのたびに神様の御業がなされ、クリスチャンたちは教会が人間の思いを遥かに越えた神の力によって導かれていることを知って、神の栄光を仰ぎました。
初代教会の歴史だけでなく、旧約聖書に描かれている神の民の歴史を見ていてもそうですが、危機的な状況は神の働きがなされる時でもあります。平穏無事な時代は、神の働きを見いだすのが難しい(もちろん、良く読むと、いつの時代にも神は生きて働いています)ばかりか、堕落や腐敗が始まり、いつのまにか危機に陥っていくことが少なくないのです。教会も、順調に進んでいるときは、気をつけなければ油断したり高慢になったりしやすい。でも、危機に陥ると、必死で神様に祈ってすがり、そして神様は祈りに応えて、御業を行って栄光を表してくださるのです。
一番気をつけなければならないのは、危機に陥っている、あるいは陥りかけているのに、問題から目を背け、自分さえ無事ならば良いという間違った平安と満足で良しとしてしまうことです。教会にある問題、いいえ、他人事ではなく自分自身の内側にある問題にしっかりと御言葉の光を当てていただき、悔い改め、そして神様への信仰に立ち帰りましょう。そうするならば、絶体絶命のピンチでさえ、神様はチャンスとして用いて、私たちの信仰をさらに成長させてくださるのです。前進が出来ないとき、神様を見上げましょう。

共にゴールを目指して

2017-06-01
千代崎 備道
 
 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
(ヘブル人への手紙十二章1~2節)
 
教会成長を人数という面だけで見るならば、それは決して順調ではありません。キリストを信じて救われて教会員となる人が起こされて人数が増えることを私たちは祈り願っていますが、教会員となった方々がいつの日にか天に召されることは時期は分かりませんが必ずやってきます。ですから礼拝人数や教会員数は、増えることも減ることもあります。しかし、もし先に天国に行かれた方々の人数も含めてカウントするなら、これからも増え続けるはずです。
ギリシャ正教やロシア正教では、礼拝堂の中に昔の聖人たちの絵が飾られています。これは人間を拝むという偶像化ではなく、彼らも共に神様を礼拝している、という理解だと聞きました。池の上教会で毎年一月末に行われる召天者記念礼拝で召天された方々の写真を飾っているのと似ているかもしれません。天国に行かれた方々も、天において神様を礼拝している。私たちも共に礼拝をしているのです。
毎年、何人かの方が天に召され、寂しさを覚えます。でも、その方々も雲のように私たちを取り囲み、私たちの信仰のレースを見守っていてくださる。ちょうどマラソンや駅伝で、先に走り終えた選手たちが応援をしているかのようです。ですから私たちは励まされ、レースには苦しい時もありますが、神の家族が待っているゴールを目指すのです。
ヘブル人の手紙では、信仰の生涯をレースに例えて、信仰の歩み(走り)を妨げる罪から離れつつ、完成者であるキリストの似姿となることを目標として、前進するようにと勧めています。キリストから目を離さないならば、正しい方向に向かって進むことができて、走ってきたことが無駄になるような、コースから外れたレースにはなりません。しっかりとキリストを見つめ、信仰を堅く保って歩みましょう。すでに人生のレースをゴールされた方々の良き模範、それは何よりも最後まで信仰を守り通した姿です。その模範となる信仰の生き方を思い起こしつつ、これからも教会も、また一人一人も前進してまいりましょう。

私の身に起こったこと

2017-05-01
千代崎 備道
 
 さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。
 
(ピリピ人への手紙一章12節)
 
この手紙を書いたとき、彼は牢獄に閉じ込められていました。ピリピで経験したような(おそらく地下の)薄暗い獄屋ではなく、手紙を書いたり面会をする自由がある、軟禁状態でした。しかし、自分の行きたいところにはいけず、パウロの伝道活動はストップしていました。パウロ投獄の影響も出ていました。パウロを心配する人たちもいましたが、パウロの反対者は、ここぞとばかりパウロを非難し、犯罪でも犯したに違いないと、誹謗中傷をしました。それが、パウロの仲間たちをさらに悩ませたのです。
何一つ良いことは無い、と思われたかもしれない。でもパウロは喜んでいるのです(18節)。パウロが迫害を受けたのを知って、キリストも使徒たちも迫害されたのだから、福音を伝えていたからこそパウロも迫害を受けている、と確信を与えられて、ますます大胆に福音を伝える人たちがいました。またパウロの敵たちも、パウロが身動きできないうちに、自分たちこそがキリストを伝えてるんだ、と伝道しました。パウロのいた牢獄を番していた兵士たちの中にもパウロの証しを聞いてキリストを信じる者が与えられたのです。そして、パウロは獄中でも手紙を書いて諸教会を教え励まし、教会は前進していきました。全ては福音の前進に役立っているのです。
パウロの身に起こった出来事だけではありません。私たちの身に起こったこと、また教会に起きている出来事、その全ては福音の前進を妨げることはできません。一時的に、また一面だけを見るならば、行き詰まっているように見えても、長い目で見るなら神様がそれを用いて益としてくだいます。ですから、自分の身に起こったことで思い煩う必要はありません。むしろ、導いてくださる聖霊の働きを信頼し、御言葉により強められ、主の働きのために私のような小さな者さえも用いていただけることを感謝するのです。

あなたは輝いています

2017-04-05
千代崎 備道

  あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また曲がった邪悪な世代の中
にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の
光のして輝くためです。
(ピリピ二章15、16節)
  先日は天体ショーで日本中が沸き立ちました。数十年ぶりの金環蝕が東京でも見ることが
できました。残念ながら金星蝕は雲のために見えませんでしたが。明けの明星とも言われる
明るい金星も、夜道を照らすことが出来る月も、太陽の光を反射して輝いています。その軌
道の正確さは、創造主の御手の巧みさを表します。輝くのは天体だけではありません。ある
方が山の木々を見て、「こんなに様々な種類の緑色があるなんて」と感嘆されました。確か
に、新緑と深い緑、淡い緑と濃い緑、一つの木でも葉によって色彩に違いがあり、太陽の光
を浴びて緑に輝いています。同じ日光が反射しているのですが、光の三原色の絶妙な配分に
より、どれほどの「色」が生まれることでしょう。神様は最高の芸術家です。
  私たちも主の光を受けて輝く存在です。その輝き方は一人一人異なります。神の聖さを映
し出して、その人がいるだけで主のご臨在を感じさせる方がおられます。神の義のように、まっすぐな生き方を示された方がおられます。神の愛を反映して様々な愛の働きをしておら
れる方々は、数え切れないほどです。神様のご性格の一部が、様々な配分でその人の中に働
き、その人でなければ出すことのできない色合いで輝いているのです。
  また、同じ人でも輝き方が段々と変わっていくのを見ることができます。自分の力で輝こ
うとしていた人が、主に委ねた穏やかな光となります。苦難の中で一事は輝きを失ったよう
に見えた方が、それでも主に信頼するようになったとき、小さい光ですが、磨かれた宝石の
ような輝きを放つようになります。みなさんは、神の作品であり、神の宝の民なのです。
  イエス様が「あなたがたは世の光」と言われたのは、何年も修行して世の光となれ、とい
うことではなく、主を信じて救われたときから、すでに「光」としていただいたということ
です。それは、自分の光(栄誉)ではなく、救ってくださったお方の恵みの光が反射するか
らです。ですから「自分は大丈夫かしら」と心配は無用です。主からの光をたっぷりと受け
てください。主があなたの光を整えて、ご計画のままに素晴らしい作品に仕上げてくださる
のです。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
FAX.0422-33-0061
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