み言葉のいづみ
主の手が短いのではない
2024-10-01
千代崎 備道
見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
(イザヤ書五十九章1、2節)
神の助けを願っても与えられないでいると、神様が自分を見放して手を伸ばしてくださらないのか、あるいは、この問題に関しては神様も手が短くて救うことが出来ないのか、と考えてしまいます。
神様の御手が伸ばされないのには理由があるでしょう。ある場合は、神の時が来ていないからです。今はその時ではなく、最善の時があるのを神様はご存じです。あるいは、私たちの求めることが御心とは違っていて最善の結果とはならないのなら、神様は違う形で祈りに応えてくださるでしょう。もしかしたら、私たちの成長に必要な訓練であるなら、直ぐには手を伸ばされないでしょう。でも、逃れの道も用意していてくださいます。
しかし、もっと深刻なケースがある。それは罪の問題です。イザヤが語ります、イスラエルの民が助けを求めても主の手が伸ばされないのは彼らの罪が原因だ、と。イスラエルは何度も神様に背いて罪を犯してきました。その結果、彼らが災いに遭う。するとそれまで真剣に神を求めて来なかったのに都合の良い助けだけを求めて祈る。それでも憐れみの神は何回も彼らを苦難から救ってくださったのですが、このようなことを繰り返しているなら、彼らは本当に罪に染まって、信仰も形だけの御利益信仰となってしまう。そこで、神様は彼らに裁きを下し、彼らが心から悔い改めて立ち返るのを待っている。ですから、彼らの咎の故に祈りに応えないのです。
では、本当に神様は罪の問題には手を伸ばすことが出来ないのでしょうか。いいや、「主の手は短かかろうか」。神様は右の手、すなわち最も力強い「手」を伸ばしてくださった。それが御子を遣わしたことです。十字架により人間を罪から救ってくださったのです。
今、私たちのためには、主の手は十分に伸ばされています。すでに十字架の贖いは完成しました。聖霊が私たちの心に使わされています。教会が救いの場として与えられました。ただ、私たちが自分から心を開かないのなら、神様は無理矢理に私たちを変えようとはなさいません。神様との間を仕切っている罪があるなら、私たちの側から罪を告白し、主からの救いを祈りましょう。そのとき、主の手は私の心の底にまで伸ばされ、罪を赦し、汚れをきよめ、私たちを造り変えてくださるのです。

祈りに応える主の手
2024-09-01
千代崎 備道
イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」
(マルコの福音書一章41節)
イエス様が病人を癒されるとき、言葉だけで癒すこともおできになりますが、手を差しのばして触れてくださることもあります。一人の病人がイエス様に癒しを求めて進み出ました。彼の病は、当時は宗教的な汚れだと人々が考えていたため、彼に近づこうとする人は少なく、あえて触れようとする人はいませんでした。でもイエス様は彼を深く憐れみ、彼に触った上で、病気を癒し、人々が汚れだと言っていた彼の体をきよくしてくださったのです。
神様は手を伸ばされるとき、それは裁きのためであったり、救いのためであったりします。また、いつ手を伸ばしてくださるかは、神様が決めることです。ですから人間の思い通りにはなりません。でも、神様は人間に「祈れ」と命じておられます。私たちが祈る時に、神様は人間を憐れんでくださり、手を伸ばしてくださるからです。他には頼ることが出来ない。ただ神様だけを信頼して、助けを求めている姿に、神様は深い憐れみを覚えておられる。そのことを神の御子であるイエス様は私たちに示してくださったのです。
「神の手は短かろうか」、いいえ、決して短いはずがない。きっと手を伸ばして私たちを救ってくださる。私たちは、そう信じています。でも、それはただ待っているのではありません。神様の手が伸ばされるときを待ち望み、祈るのです。直ぐに応答があるかは分かりません。長く待つこともあるでしょう。そのことを通して、忍耐が養われ、神様への信頼が強められます。また、願った通りの結果ではなく、違った形で神様の御業がなされるかもしれません。その時は、神様の正しさが自分の考えよりも正しいことを学び、義なる神様を信頼するようになります。祈らないで結果だけを受け取るのでは信仰は成長しません。ですから神様は祈ることを命じておられるのです。
神の御手は、私の心の中にある「汚れ」、つまり罪にまで伸ばされます。隠しておきたかった心の奥にある罪、気がついていなかった心の汚れに気がつかされるのは嬉しくありません。でも、主の手が伸ばされ、そこに触れてくださるなら、その心をきよめてくださる。それが主の御心なのです。私たちが聖書を読み、また祈るとき、神様との生きた交わりを通して、神の御手が私たちにも伸ばされるのです。ですから、神様の助けが必要な存在であることを認め、主に祈り求めてまいりましょう。

見えないが働いている主の手
2024-08-01
千代崎 備道
その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持ってくるように命じ、王の前でそれを読ませた。
(エステル記六章1節)
エステル記というのは旧約聖書の中でも一番の変わり種で、一度も神様の名前が出て来ません。礼拝や信仰に関する言葉も一切使われていないという徹底した書物です。見かけ上は神様が登場しないままにストーリーが進んで行くのですが、見る人が見れば、確かに主が生きて働いておられることが分かります。
時はペルシャ帝国が世界を支配していた時代、多くのユダヤ人がペルシャの支配下で生きていました。迫害が強い時期もあって宗教的なことを書かないようにしたのかもしれません。あるとき、ユダヤ人を憎む政治家によってユダヤ人虐殺計画が進められていました。それを知ったユダヤ人たちは「断食した」と書かれていますが、これはダイエットのためではなく、祈っていたことは明らかです。その祈りに神様が応えてくださり、御手を伸ばしてくださったのです。
「その夜」とは特別な時でした。この日に事が起きなければ大変なことになるかもしれないのが次の日でした。王様が眠れなくなった。誰にでも起きることです。どうしても眠れない王様は記録の書、つまり王宮日誌を持ってこさせます。一番面白くない書なので、読ませているうちに聞いている自分が眠くなると考えた。でも人間の計算通りになりません。眠れないままに日誌が読み進められていくうちに、一つの記録が読み上げられた。それが、この後で殺害計画を変えて解決する切っ掛けとなる出来事でした。もし、王様が眠れていたら、もし王様がこの書を選ばなかったなら、きっとユダヤ人は皆殺しになっていたでしょう。こんな小さな出来事を起こして、歴史の流れを動かしたのは、見えない神様の御手でした。
今も神様は目に見えないお方です。その神様のなさることも、信仰の目で見なければ、日常のありふれた出来事だったかもしれません。でも神様は普通の出来事、当たり前の生活の中にも御手を伸ばしておられます。超自然的な奇蹟ではなくても、小さな事を通して私たちの信仰を導き、人生を変えて行ってくださるのです。神の御手は不思議な手です。
私たちは自分に都合の良い、そして信仰抜きでも分かりやすい結果を求めて祈るかもしれません。でも神様にはご計画があり、タイミングがあり、小さな切っ掛けをも用いてくださることがおできになります。この神様の御手を信頼しましょう。

私の手に渡す主の手
2024-07-01
千代崎 備道
ダビデはもう一度、主に伺った。すると主は答えて言われた。「さあ、ケイラに下って行け。わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから。」
(第一サムエル記二十三章4節)
旧約聖書の中で神様が何回か言われた言葉に、「(敵を)あなたの手に渡す」という言い回しがあります。勝つことが難しい敵に勝たせてくださる、という意味です。ダビデはサウル王に命を狙われて逃亡中でした。ケイラという町がペリシテ人の略奪隊に襲われ、すでに作物が奪われ、このままいくと町中が殺される。ダビデの仲間たちは、自分たちも困難な状況なのに他の人たちを救うのは無理だとダビデを止めようとします。でも彼は神様に問いかけ、神様はダビデがその町を救うようにと命じたのです。そして、「あなたの手に渡す」と言って、勇気を出して戦うようにと励ますのです。
神様は誰かに頼まなくても、ご自分の手で町を救うこともできたでしょう。でも、ダビデが自分のためではなく、人々を救う王となるようにと訓練を与えられたのです。ダビデは神様の思いを受け止め、その命令に従いました。神様は私たちにも何かを託されることがあります。私たちを用いて主の手の働きを成し遂げるためです。時には困難もあるでしょう。でも、それも私たちが成長するための訓練なのです。
同じ章の中には主に背いたサウル王の姿も記されています。ダビデがケイラの町を敵から救い出し、その町に滞在しているのを聞いたサウルは、これを好機と考えました。これまでダビデを捕まえようとして何回も失敗をしてきたので、町の中に留まっているなら捕まえやすいと考えたからです。そのときサウルが言ったのは、「神は彼を私の手に渡された」(7節)。神様から言われたのではないのに、自分に都合良く考えたのです。神様からダビデを渡された、だから彼を好き勝手にして良い、という自己中心な考えの王でした。
私たちが何でも自分の思い通りに考えて、しかもそれを神様からお墨付きをいただいたと思うのは、決して神様のお考えではありません。神様の御手は私たちの欲望を叶えるために働くのではなく、私たちを、また私たちを通して誰かを救うために伸ばされるのです。そして、主の手は私たちをも用いることが出来る力があり、もし神様のお言葉に従って働こうとする私たちが、力が足らずに悩むなら、その時は神様に祈って助けを受ければ良いのです。そのようにして神様は私たちの生活を通して訓練を与え、信仰を成長させてくださるのです。これが主の手の御業なのです。

主の手に手渡す
2024-06-01
千代崎 備道
そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。
(マタイの福音書十四章19節・口語訳)
成人男性だけで五千人という大群衆を「あなたたちで彼らに食べ物を与えなさい」とイエス様から言われた弟子たちはどれほど頭を悩ませたことでしょう。「五千人の給食」と呼ばれるこの奇蹟は、四つの福音書の全てに記録されているほど、弟子たち全員の記憶に刻まれた出来事でした。
一人の少年が、お母さんに持たされたお弁当だったのでしょうか、五つのパンと二匹の魚をイエス様のためにと弟子たちのところに持ってきました。たったこれだけでは五千人以上の人々に何の足しになるでしょうか、と計算する弟子もいました。もし欲深い者がいたら、イエス様のところにもっていかずに受け取った自分たちだけで山分けしたり、争ったりしたかもしれません。でも、弟子たちはイエス様に手渡しました。
イエス様をパンと魚をご自分の手にとって、天を仰いで祝福をしました。それからそれらを裂いて弟子たちに手渡し、弟子たちは百人か五十人ごとに座ったグループの恐らく代表者に手渡し、そして一人一人の手に手渡されたのでしょう。全員が食べて満腹し、あまったものも無駄にならないように集められたと記されています。群衆を帰らせたあとで、弟子たちの夕食になったのかもしれません。
弟子たちが自分たちの手だけで配ったら、最初の数人で終わっていたでしょう。イエス様に手渡して委ねたから奇蹟が起きたのです。私たちが自分の手に握りしめているなら、自分の力では解決できません。主の手にお任せする信仰が大切です。
イエス様は、そして弟子たちも、少年から奪い取ったりはしません。少年が自ら弟子たちに手渡し、弟子たちもイエス様に委ねたのです。神様は私たちのもっているものを無理矢理に取り上げたりはしません。それがモノであろうと、困難であろうと、です。主の手は決して短くありませんが、私たちの心を軽んじて強制的に働かれるのではありません。私たちが神様を信頼して委ねるのを待っておられるのです。なかなか素直に信じることができない私たちが、結局、自分ではどうすることもできずに倒れてしまったときには、手を出されるかもしれませんが、神様の御心は、私たちが主に手渡す決心をすることです。主を信頼しましょう。
