み言葉のいづみ
十字架の主は生きておられる
2015-03-01
千代崎 備道
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
(第一コリント一章23~24節)
旧約聖書での「主は生きておられる」は、新約時代に生きる私たちには「キリストは生きて
おられる」ということでもあります。しかし、キリストは生きておられる、という場合のキリ
ストは、十字架と復活のキリストです。
私たちはどうしても、十字架以前のキリストの姿を心に描きます。それは愛と力に満ちたイエス様です。ところが、現実の自分の姿、自分の置かれている状況は、愛や力とはかけ離れています。すると、「主は生きておられるのに、何故」という疑問が生まれてきて、だから「主は生きておられない」、「私と共にはいてくださらない」という結論を出してしまうことがあります。
しかし、聖書が伝えるキリストは十字架の主です。パウロがコリントの町で伝道したときも、十字架のキリストを伝えました。それは、栄光のメシアを待ち望むユダヤ人にはつまずきとなって信じがたかったでしょうし、神々が十字架刑を受けるなんていうことはギリシャ人には愚かに見えたでしょう。でもパウロは、十字架のキリストこそが救いの道であり、神の力、神の知恵だと信じたのです。
私たちと共にいてくださり、今も生きておられる主イエス・キリストは、十字架の主です。復活後も手に釘の跡があり、黙示録に描かれる世の終わりの情景でも「屠られたと見える」、すなわち十字架の痕跡をとどめたお姿なのです(黙示録五・6)。十字架の傷を隠さないのです。ですから、私たちが悩み苦しみのときに近くにいてくださるお方なのです。私たちは人間関係に悩みます。イエス様も家族に誤解され、弟子たちに裏切られ、無い罪を着せられました。私たちは傷つき痛むことがあります。キリストも十字架の痛み、父なる神から見放される苦しみを経験されました。十字架の主を心に浮かべるとき、一番辛い時にこそ、一番近くにいてくださり、誰からも見放されたと感じるときも、主は決して見捨てずに、苦しみ私たちと付き合ってくださることを知るのです。そこに、深い慰めがあり、神の力と知恵とが備えられているのです。
十字架の主は生きておられ、私と共にいてくださる。この恵みを覚えましょう。
しかし、聖書が伝えるキリストは十字架の主です。パウロがコリントの町で伝道したときも、十字架のキリストを伝えました。それは、栄光のメシアを待ち望むユダヤ人にはつまずきとなって信じがたかったでしょうし、神々が十字架刑を受けるなんていうことはギリシャ人には愚かに見えたでしょう。でもパウロは、十字架のキリストこそが救いの道であり、神の力、神の知恵だと信じたのです。
私たちと共にいてくださり、今も生きておられる主イエス・キリストは、十字架の主です。復活後も手に釘の跡があり、黙示録に描かれる世の終わりの情景でも「屠られたと見える」、すなわち十字架の痕跡をとどめたお姿なのです(黙示録五・6)。十字架の傷を隠さないのです。ですから、私たちが悩み苦しみのときに近くにいてくださるお方なのです。私たちは人間関係に悩みます。イエス様も家族に誤解され、弟子たちに裏切られ、無い罪を着せられました。私たちは傷つき痛むことがあります。キリストも十字架の痛み、父なる神から見放される苦しみを経験されました。十字架の主を心に浮かべるとき、一番辛い時にこそ、一番近くにいてくださり、誰からも見放されたと感じるときも、主は決して見捨てずに、苦しみ私たちと付き合ってくださることを知るのです。そこに、深い慰めがあり、神の力と知恵とが備えられているのです。
十字架の主は生きておられ、私と共にいてくださる。この恵みを覚えましょう。

生きておられる主を知るために
2015-02-01
千代崎 備道
汝ら静まりて我の神たるを知れ。
(詩篇四十六篇10節・文語訳より)
池の上教会でも代沢時代からの方は文語訳で覚えておられるでしょうか。新改訳(第三版)
では「やめよ。わたしこそ神であることを知れ」と訳されています。私は口語訳の「静まっ
て、わたしこそ神であることを知れ」で覚えていますが、文語訳の力強さと格調の高さには
敵わない気がします。
「静まる」とは今していることを一端「やめ」、祈ることです。そうしたときに初めて、神様が神様であることを知ることが出来るからです。静まらず、していることを止めもしな
いなら、なかなか神様を知ることも、その神様が生きておられる、力強いお方であることも
知ることが出来ません。
現代は情報の時代であり、絶えずニュースや連絡が伝わってきます。仕事にも追われ、休
まる時が少ない。ですから私たちは静まるということを忘れ、私たちの心は様々な感情、ア
イデア、欲求などで溢れかえり、神様に目を向けることなど不可能に思います。ですから、「主は生きておられる」ことを頭では知っていて、またそのように信じていても、実感し体
験することができないのです。
あまりにも神様が分からなくなり、忙しさのために心が滅びかかっていくとき、神様は私
たちが大切なものを失わないように、あらゆることを通して導いてくださいます。日々の聖
書通読や毎週の説教を通して語りかけ、それも出来ないほどの「魂の非常事態」には、行き
詰まりや悩みの中で何かを止めざるを得ないところに置いてくださる。その時、ようやく私
たちは静まって神様に目を向けます。そして、神様の御声を聞いたとき、問題だと思ってい
たことが解決し、あるいは解放され、主が確かに生きて働いておられることを、自分の経験
として知ることができるのです。
詩篇四十六篇1節には「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」と
書かれています。口語訳では「悩める時のいと近き助け」です。原文では「彼(神)は必ず
見いだされる」という表現です。神様は生きておられ、私たちのすぐ側にいらっしゃる。私
たちの心が多くのことで塞がれているために見えなくなっている。でも振り返るなら、そこ
にいてくださり、すぐ近くで助けとなってくださる。必ず見いだすことができるのです。こ
のお方にお会いするため、静まって祈ろうではありませんか。

主は生きておられる
2015-01-01
千代崎 備道
彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます」
その女はエリヤに行った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主の言葉
が真実であることを知りました。」
列王記第一 十七章12節、24節
今年の池の上教会の御言葉は「主は生きておられる」(詩篇十八篇46節)です。旧約聖書
に四十数回この表現が使われている中で最も有名なのは列王記第一の十八章で預言者エリヤ
が言った「私の仕えている万軍の主は生きておられます」という言葉で、池の上教会二十周
年記念誌のタイトルに用いられています。預言者エリヤは十七章で「私の仕えているイスラ
エルの神、主は生きておられる」と宣言して、さっそうと聖書の中に登場し、目覚ましい働
きを続けます。雨が降らなくなり、エリヤはツァレファテの町に行き、ひとりのやもめに出
会いました。彼女はイスラエルの預言者エリヤの力を噂で聞いており、「あなたの神」と、エリヤの神が力あるお方だと理解して、「主は生きておられます」と言ったのです。ところ
が、彼女は自分の息子が死から救われたとき、知識ではなく経験から、そして心の底から、主が生きておられること、エリヤがその神から遣わされた人であり、神の言葉が真実である
と「知りました」と告白したのです。
「主は生きておられる」ことは、ある人には言うまでもない、当たり前のことかもしれま
せん。しかし、そのことを事実として、実感を込めて告白しているでしょうか。確かに主が
生きておられ、今も力をもって働いておられることを信じ、信頼し、そのお方に従っている
でしょうか。この年、お一人お一人が、「主は生きておられる」ことを自分の信仰として告
白する者としていただきましょう。
エリヤが名も無いやもめの所に遣わされたのは、最初はエリヤが食物を得るためですが、
同時に彼女とその息子も養われていることに気が付きます。そして病死した息子が奇跡によ
って生き返ったとき、彼女はエリヤがこの日のために遣わされたことを知るのです。毎日の
ように「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない」という奇跡を目の前にしても、本気
で「主は生きておられる」と思わなかった彼女に、神様はご自分が生きておられる神である
ことを知らせてくださったのです。同じ主は、今も生きておられるお方であり、私たちに御
言葉を語りかけておられます。私たちも「今、知りました」と証しする者にしていただこう
ではありませんか。

恵みとまことに満ちた主の栄光
2014-12-01
千代崎 備道
私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。
(ヨハネの福音書一章14節)
クリスマスの輝きは神の御子の栄光を表しており、罪の世にいる人々を救うために栄光の
お方が来てくださったことが「光はやみの中に輝いている」(ヨハネ一章5節)ということ
です。この栄光は恵みとまことに満ちています。
恵みの栄光とは、人間の努力や修行ではなく、神が無代価で与えてくださる、恵みによる救
いです。自分で自分を栄光の姿にしようとしても出来ませんし、もし出来たとしたら、それは
神の栄光ではなく自分の栄光となり、神の前に高慢になってしまいます。私たちはただ御子を
信じて受け入れるだけで、神の子どもとなる特権をいただくのです(12節)。
キリストを信じて救われた時に、罪を赦されるだけでなく、神の子供としていただくことが
最初の栄光であり、神の恵みです。さらにキリストの恵みの豊かさのゆえに、恵みは増し加え
られます(16節)。特権が与えられた者は、それに相応しい姿に変えられて行き、天国に行っ
たときに完成されるのです。それが「栄光から栄光に変えられていく」ことです。自分を見て
いると栄光に変えられるというのは本当なのかと心配になります。しかし、御言葉をもって約
束してくださったお方は真実なお方ですから、必ず成し遂げて下さる。それがまことの栄光、真実な栄光なのです。
私たちが神の栄光を表す者となるということは、目標ではなく目的です。今年一年の「目標」
として栄光になることを考えるなら、どれだけ達成できたか疑問です。しかし、私たちの人生
の目的が神の栄光なのです。私たちの全てを通して神の栄光が示されるために、私たちは救わ
れたのです。失敗したことも、その失敗を通して神の憐れみが証しされるなら、失敗した私を
通して神の栄光が現されるのです。そして、私たちが失敗したままで終わるのではなく、失敗
を通して成長し、さらに恵みを求める者となるとき、私たちをそのようにしてくださったお方
がどれほど恵みと真実に満ちたお方かが証しされるのです。
今年もクリスマスを迎え、この一年が終わり、新しい一年が近づいています。一年一年、
一歩ずつ、私たちは光り輝く天国に向かって歩み続け、栄光の主にお目にかかる者としていた
だきましょう。

神の栄光への招き
2014-11-01
千代崎 備道
主の栄光が東向きの門を通って宮に入って来た。霊は私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。
なんと、主の栄光は神殿に満ちていた。
(エゼキエル 四十三章4~5節)
エゼキエルはユダ王国が滅亡してバビロン捕囚に連れて行かれた時代の預言者です。前半は神の審きと
してエルサレムが破壊されることが告げられます。その理由は、神に背いて罪を犯し続ける人々を見捨てて、栄光の神が神殿から離れたからです。神の栄光無しには、どれほど煌きらびやかに見えても、神の家は空し
いものです。後半は、エルサレム崩壊後に、やがて神がイスラエルを救ってくださり、エルサレムも回復される
ことが預言され、その締めくくりとして、新しい神殿の姿をエゼキエルは幻のうちに見せられます。
四十章から始まる長い部分は、幻の神殿の描写で、読んでいても退屈なところです。そこに描かれている神
殿は、案内役の天使と響き渡る神の声を別にすれば、まるで誰もいないかのように感じます。神の栄光が満ち
あふれる神殿は、人っ子ひとりいないのです。それは、今は罪のために捕囚地で辱めを受けている人々に、彼
らが神を信じ、罪を悔い改めて立ち帰るなら、神は素晴らしい場所を用意して待っていて下さることを示してい
るのです。神様は人々を、その栄光に輝く場所へと招いておられるのです。
イエス様が弟子たちのために用意される天国の住まいも、素晴らしい場所に違いありません(ヨハネ十四章
2節)。でも、私たちがそこに入るのでなければ、その輝く場所を見ることも味わうこともできません。それは、この人生が終わった後のことだけではありません。神様は、今、この世において私たちが生かされている人生
においても、私たちをご自分の栄光を現す生涯を送るようにと招いておられます。それを求めて経験するかは、私たち次第なのです。
聖徒と呼ばれる信仰の先達を思うとき、あの方たちのような、光り輝くクリスチャンとなれるだろうかと自問し
ます。私には出来ないように感じます。でも、誰も、自分には出来ると思っていなかったでしょう。ただ、神様の
御声に従い、約束の御言葉を信じて生きたのです。そのとき、神様が用意してくださった生涯を歩むことができ
たのです。そして、本人も気がついたとき、なんと、ここに栄光の神様が一緒にいてくださった、と驚くのではない
でしょうか。神様は私たちの心の宮にも入ってくださり、内側から栄光を輝かせたいと待っておられるのです。あ
なたの人生を主に委ねましょう。
