み言葉のいづみ
栄光を失った者への救い
2014-05-01
千代崎 備道
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認めら
れるのです。
(ローマ人への手紙三章・23~24)
人間の栄光は失われることがあります。素晴らしい業績を上げた政治家が失脚したり、頂点に立ったアス
リートが追い越されたりすることもあります。人間の栄光には限界があります。
聖書は、人間は「神のかたち」として、全ての被造物の頂点として造られたことを教えていますが(創世記一、二章)、その人間が罪を犯したため、エデンの園から追い出されたことも告げています。イスラエルはエジプト
から救われ、神の民としていただいたのに、その神様に逆らい、やがて国は滅ぼされます。バビロン捕囚の
時代の預言者エゼキエルは、幻の中で神の栄光がエルサレムを去る情景を見ました。ところが、その神の
栄光が新しいエルサレムに帰ってくることを預言したのです(エゼキエル書十一章、四十三章)。神様は栄光
を失い、神の栄誉を受けるに相応しくない者を救い、新しい栄光を与えるお方なのです。ペテロは主イエスを
見捨てて逃げ出しましたが、再度の召命を受けて教会の指導者となりました。パウロは人間的にはエリート
でしたが、キリストの体である教会を迫害し、神様に逆らった生き方をしていましたが、復活の主の光に照ら
されて人生が変えられ、救いを宣べ伝える者になりました。
誰が見ても栄光と思うような人ではなく、失格者や弱者、いえ神に背いた罪人が救いの恵みに与り、御心に
従う人になることは、人間の常識ではなく、全能の神にしか出来ない働きであって、そこに神の栄光が現される
のです。
これまでの人生において挫折を味わってきた人も、また成功の人生だと思っていたのに神に逆らう罪人である
ことを知った人も、神の恵みにより、また十字架の贖いによって、義なる者としていただき、神の愛と義を現す生
き方へと変えられるのです。また、クリスチャンとなってからも、どれだけ失敗があったでしょうか。でも、主は、その私たちを招いてくださり、主の栄光を証しする者に造り変えようとお考えなのです。
もしあなたが、私のような者は栄光にはほど遠い、と思っておられるなら、神様はあなたに声をかけてくださって
いるのです。あなただからこそ、神様が用いてくださるのです。この主の御心を信じ、従いましょう。

十字架と復活の栄光
2014-04-01
千代崎 備道
それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じる
ことなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。
(ヘブル書二章9~10節)
敗北して挫折したスポーツ選手がもう一度挑戦して優勝をしたなら、多くの人に感動を与え、スポットライトを
受けることでしょう。失敗した人が、それを乗り越えて成功することは、まさに栄光の姿です。しかし、挫折や失
敗のただ中にいる姿は、栄光にはほど遠いと思われます。イエス様にとって、復活が栄光であることは明らか
ですが、十字架につかれたことも栄光です。すべての人を救うために罪の身代わりとなることは、神の御子に
しかできない、人間の考えを遙かに越えた働きであり、栄光の御業です。復活して死に勝利し、私たちに永遠の
命を与えてくださったことも栄光です。
この十字架と復活の両方とも栄光とされたお方を知っていたパウロは、ピリピ書においては、迫害の中でも「私
は喜ぶ」と何度も告白し、ローマ書では「患難さえも」ついには希望を生み出す、と語っています。苦しみをも主の
栄光のためだと受け止めたパウロは、生きることを通しても、そして死ぬことでさえも、それを通して主の栄光が
現されることを信じる事が出来たのです。
私たちもこの十字架と復活の主を信じるとき、たとえ愛する人を失う悲しみの中にあっても、天国で再会する
希望を抱き、平安を持つことが出来るようにしていただけるのです。また失望を味わうことがあっても、その中で
絶望ではなく信仰によって歩むことが出来るのです。それは、この信仰を持っていない人々からは、不思議に見
えるかもしれません。そのような生き方が出来るのは、私たちを通して主が栄光を現してくださるからなのです。
教会でのご葬儀は、この栄光による人生を証し、十字架と復活を信じる信仰を伝える機会です。悲しんでいる
方々にこの信仰を知っていただき、その人の生き方も変えられるなら、私たちを通して神の栄光ある御業がなさ
れるのです。それもキリストの栄光です。
今年も主イエス様の復活を記念するイースターを祝います。その中で、十字架と復活を信じる信仰を新たにし、どんな苦難の時でも感謝と賛美が与えられるように、パウロのように祈り願う者となりましょう。その時、私たちも
主の栄光を現す者として用いていただけるのです。

栄光の前の苦しみ
2014-03-01
千代崎 備道
イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して
全うされた・・・
(ヘブル書二章9~10節)
栄光の前に苦難はつきものです。金メダルのためにアスリートは過酷な訓練に耐え、合格者は受験勉強と
試験に耐え抜きます。偉大な働きには、その陰に多くの苦労もありました。私たちが天国の栄光に入れてい
ただく前に、死という困難を通らなければなりません。キリストでさえ、復活と召天という栄光の前に、苦しみ
と死を通られたのです。
しかし、イエス様の場合は私たちとは違います。主が十字架の苦しみを受けられたのは、ご自分のためでは
なく、私たちの罪を赦し、救うためでした。私たちは神様に逆らう罪のために、神からの栄光を受けることが出
来ない存在でしたが(ローマ三・23)キリストが私たちの身代わりとなり十字架についてくださったので、私たち
は義と認められ、天国に入る資格を受け、神の子としての身分までいただいたのです。私たちは自分の力や行
いでは受けることが出来ない、大いなる栄光を与えていただいたのは、イエス様の十字架のおかげです。こん
な大きな働きが出来たのは、神の御子であるイエス様だけなのです。これが、イエス様ならではの栄光です。
クリスチャンであろうとなかろうと、誰でも苦労があります。でも、クリスチャンだからこそ、味わう苦難と栄光も
あります。自分の栄光や利益のために苦労するのは誰でも当然です。でも、自分のためではないのに苦しめら
れたり、他の人を助けるために悩むこと、そして、何よりも、私を救ってくださったイエス様のお働きのために進ん
で労苦を味わうことは、十字架の救いを知ったからこそ耐え得る苦しみです。そのような苦しみはイエス様の歩
まれた道をついて行くことであり、主のお苦しみの一端を味わうことでもあります。この、キリストの故の苦しみを
通るとき、私たちの信仰はきよめられ、成長し、イエス様の栄光のお姿に近づけていただくのです。
信仰の故に、クリスチャンであるために、悩んだり、辛い思いをしておられたら、それは、あなたがイエス様の足
跡を歩んでいるからです。主にある兄弟姉妹のため、キリストの体である教会のために苦労するとき、イエス様
も一緒にいて、その重荷を共に背負ってくださるのです。。

栄光の日々
2014-02-01
千代崎 備道
ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たに
されています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い栄光をもたらすから
です。
(第二コリント四章16~17節)
変化を好もうと好まざろうと、必ず変化するものがあります。毎年、年齢は増えます。子どもの頃は嬉しいだ
けの誕生日を、大人になると複雑な思いで迎えるようになります。肉体の老化は、子どもの頃から始まる部分
もあると言われ、はっきりと自覚する時がきます。私は二十代の終わり頃、目尻の皺に気がついた時に、老化
が自分と無関係では無いことを知りました。老眼、腰痛、体力の衰え、誰もがいつかは通る、また通ってきた道
です。
心身の衰えと並行し、様々な苦難も訪れます。子どもの頃に怖がっていたことは大人になると恐れなくなりま
すが、もっと厳しい現実に直面します。仕事や経済、健康、人間関係、苦悩の無い人はごく希でしょう。ところが
パウロは「軽い患難」と言います。彼ほどの患難に遭う人は多くはありません。迫害、盗賊、海難、飢えと寒さ、そして宣教と牧会の苦労。でも彼は天国で受ける栄誉の大きさを想う時、どれほどの苦労も「軽い」と受け止め
たのです。(日本語では「重い」栄光という言い方は一般的ではありませんが、ヘブル語では「栄光」の語源は
「重い」という語です。人から重んじられることが栄光だからです。)
神が与えてくださる栄光は天国だけではありません。私たちの内側を造り変えて、天国に相応しい者に整えて
下さることも栄光の一端です。毎日の生活を通して、また日々御言葉が与えられることを通して、主の恵みに感
動し、心が励まされ、強められ、きよめられ、信仰が深められていく。「去年とは変わって来ましたね」と誰かに
言われる。奉仕や交わりが喜びとなった。こう言った一つ一つの事が、私たちの内側に神様が働いてくださった
証しです。キリストが私たちを通して、「人を新しく生まれ変わらせる」という新生の御業を行い、主の栄光を示し
てくださるのです。そうです、この私が主の栄光の器として用いていただいているのです。
信仰生涯は、救われた最初だけが栄光なのでもなければ、また天国に行ってからの栄光だけなのでもありま
せん。栄光から栄光へと変えられて行く生涯なのです。苦難でさえも神様は用いてくださり、主の栄光を示すた
めに、万事を益としてくださるのです。

栄光へと変えられる
2014-01-01
千代崎 備道
栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
(第二コリント三章18節)
聖書は私たちに、栄光に満ちた神様を顕しています。天地万物を創造され、歴史を計画し、世界を治めてお
られる主なる神です。神様の栄光はあまりにも偉大で、太陽の光のように、近づくことも出来ないほどです。と
ころが、その神様が、私たちをも栄光へと変えて下さるとは、驚くべきことではないでしょうか。今年は、皆様と
一緒に、栄光と変えられるということを学び、考え、体験させていただきたいと願っています。
神様は人間を「神のかたち」として造られたと創世記は告げています。それは、神様の栄光を反映する存在
として生きるためです。クリスチャンは、キリストと似た者になることが目的であるとパウロは教えています。一
人一人に与えられている賜物や恵みが発揮されると、キリストの素晴らしさが私たちを通して表されるのです。
しかし、私たちが表すべき栄光は、必ずしも素晴らしいことや良いことばかりではありません。私たちは様々な
ことで悩んだり苦しんだりします。しかし、その苦難の中で神様に祈り、平安が与えられる。神様から時にかな
った恵みが与えられることに気がつき、感謝と賛美が生まれる。それは、クリスチャンだからこそ起こることです。
苦しみや悲しみの中でも、平安や感謝があふれ出たり、滲み出てくる。それはキリストが私たちと共にいてくださ
る証拠であり、主の栄光が私たちを通して示されているのです。これこそ、キリスト者の栄光です。
もちろん、それが出来ないこともあります。自分はまだまだ未熟なクリスチャンだと、誰もが感じることがあるの
ではないでしょうか。しかし、聖霊なる神様が私たちの内にいてくださり、失敗しても忍耐をもって導いてくださ
り分からないことを時間をかけて、経験を通して教えてくださいます。そして、少しずつでも考え方が変えられ、信仰が成長し、いつの日か、イエス様の似姿へと一歩近づいている。私たちのような弱い存在を造り変えてくだ
さることがお出来になる。それが神様が行ってくださる栄光の働きです。
最初から栄光に満ちたクリスチャンはいません。だからこそ、神様は私たちを栄光へと造り変えて、神様の栄
光を現したいとお考えなのです。栄光など私には無理だと思っている人をこそ、神様は求めておられるのです。
