み言葉のいづみ
実を結ぶ祈り
2013-07-01
千代崎 備道
そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
(ヤコブの手紙五章18節)
今年も大変に暑い夏となりそうです。しかし夏の暑さによって成長する作物もあります。実
りの秋を待ち望みつつ忍耐をしているのです。私たちも苦難の中を歩むことがあります。その
とき神様に祈り求め、その祈りが聞かれて豊かな実を結ぶときが来ることを待ち望むのです。
どのような祈りが実を結ぶのでしょうか。もちろん、疑わずに信じていることが大切なのは
言うまでもありません。また、悪い動機で求めるなら、与えられないのは当然でしょう。
イエス様の教えの中には祈りの秘訣が多く隠されています。「まずあなたの兄弟と仲直りを
しなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(マタイ五・24)。私たちは神様に
敵対していたのに罪を赦され和解していただいた者です。だから兄弟姉妹との和解が無いまま
で神様に祈ることは出来ません。また、「収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださる
ように祈りなさい」(マタイ九・38)。豊かな実を刈り取るためには、祈り手も多く必要で
す。一人でしなければならない祈りもありますが、それでも誰かと心を合わせるとき、そこ
にイエス様も共にいてくださるのです。
このように私たちが祈るとき、神様は私たちのうちに、もうすでに和解と一致の実を結ばせ
始めておられるのです。祈りの結果としての祝福も素晴らしい恵みですが、和解と一致の祈り
そのものも実であり、それは収穫前に実る「初なりの実」なのではないでしょうか。祈ること
を知らなかった者が、少しずつですが祈る信仰が与えられ、あるいは形だけになっていた祈り
が真剣な祈りへと変えられていくのは、聖霊の働き以外にあり得ないのであり、それも御霊の
実なのです。また、祈りの輪が広がり、祈りの友が与えられることは、教会に与えられる麗し
い実です。
祈り求めていることが応えられるよりも前に、これらの「初なりの実」が与えられることに
目をとめましょう。それは、やがて時が来て豊かな収穫が与えられることを信じ期待すること
が出来るように、神様が励ましてくださっておられるのです。まず祈りが始まらなければ何も
実は結ばれません。「祈る」という種を蒔くのは私たちに委ねられた使命です。その種からど
のような実を結ぶかは神様の業です。収穫の時が来るまで、祈りの手を緩めず、共に祈ってま
いりましょう。

信仰による祈り
2013-06-01
千代崎 備道
あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。
(マタイ二十一章22節)
だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。
(マルコ十一章24節)
祈りは信仰による行為です。信じて祈ることの大切さを右の聖句は教えています。「どうせ祈ってもダメだろう」
と疑いながらでは、祈り続けることはできません。祈ることは信じることです。しかし、どのように信じているのか
が、問われています。
まず、私たちは祈りが応えられることを信じます。困難の中で必要に迫られて祈るとき、その必要が満たされ、困難が解決されることを信じます。しかし、それだけですと、何でも自分の思い通りにしようとする自己中心な祈
りとなってしまうかもしれません。
祈りが聞かれることを信じるとき、私たちは祈りを聞いていてくださる神様を信じます。このお方が必ず私の祈
りを聞いておられ、私の状態を全て理解してくださり、最善のことを最善の時に行ってくださる、愛に富む神様
だ、と信頼するのです。神様を信頼するとき、祈りがすぐに応えられなくても、委ねることが出来ます。
神様を信じて祈るとき、祈りへの応えがなかなか与えられないことがあります。それでも信じて祈り続けること
は難しいと感じるでしょう。時には「神様、なぜですか」と訴えるような祈りになることもあります。そのような祈り
を重ねていくうちに、ふと神様が私に語りかけていてくださることに気がつくのです。そして、御言葉によって自分
の心に光が与えられ、神様の前での自分の信仰、すなわち自分の姿に気がつかされるのです。神様は信頼で
きるお方ですが、その神様を信じている自分の心はどうなのか。神様を信じ従っているのか、それとも神様さえ
も自分の思い通りにしようとしているのではないのか。そのとき、私たちは自分の祈り以上に、神様の御心に従
う信仰へと導かれていくのです。祈りは信仰を変えるのです。
私たちが神様の御心を第一とし、神様のご計画とご支配こそが私にとって最善であると知るとき、私の願って
いたことは、「すべて添えて与えられる」(マタイ六章33節、口語訳)のです。神様を信じ従う心が与えられたこと
こそ、私にとって最高の祝福です。だから、願いが叶うことは添えて与えられる「おまけ」なのです。信じて祈る者
となりましょう。

祈りがありますか
2013-05-01
千代崎 備道
「みな心を合わせ、祈りに専念していた。」(使徒の働き一章14節後半)
主イエスが天に昇って行かれるとき、世界宣教の命令と共に、その前にエルサレムを離れずに聖霊を待つ
ようにと弟子たちに命じられました。彼らは、ただ待つのではなく、集まって祈りました。一度は逃げてしまった
自分たちの弱さを知っていた彼らは、主の命令に従うためには、イエス様が約束なさった、神様からの力が不
可欠であることを痛感していたからです。その祈りの場所に聖霊が降られて教会が始まったのがペンテコステ
です。それ以降の弟子たちは、神の力によって素晴らしい働きを進めていったのです。その後の教会の歴史に
おいて、何度もリバイバル(信仰復興)が起こりました。停滞していた教会が聖霊の力を受けて、目覚ましい宣
教の働きが進められるようになりました。そのリバイバルの陰には祈りがありました。人々が心を合わせて祈っ
たときに聖霊が臨まれたのです。
大切な働きの背後には祈りがなければなりません。もし祈りなしに働きをするなら、成功しても人間の功績にし
てしまい、高慢の罪に陥ってしまいます。それは神様の嫌いなさる態度です。しかし、祈って働きを進めるなら、必要な時に御言葉を通して軌道修正が与えられ、また神の御心に従うことで確信が与えられ、成功しても神の
助けによることを証しし、栄光を神にお返しすることができ、感謝と賛美が生まれてきます。もし失敗したとして
も、それも主の御心であると信じ、自分や他者の評価ではなく、神様が最善へと導いてくださることを悟り、平安
でいることができます。
実は、このことは決して「偉大な働き」だけのことではありません。日常の小さな働きでも、あるいは自分の力
でできると思うことでも、その背後に祈りがあるなら、謙遜と感謝が生まれてきます。ですから、何をするにも祈
りは大切です。祈り忘れているときも、自分のために誰かがとりなしの祈りを捧げていてくださることを知ってい
れば、神様の守りを感じることができます。ですから、自分も他の人のために祈ることが大切です。神様はその
ようにして、私たち一人一人の祈りを用いようとしておられるのです。
あなたのすることの背後に祈りがあるでしょうか。今日一日が祈りによって守られているでしょうか。誰かのた
めに祈っているでしょうか。兄弟姉妹と心を合わせて祈っているでしょうか。一緒に祈りましょう。

祈りを変える祈り
2013-04-01
千代崎 備道
私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、いつも祈りのたびごとに、神のみこころに
よって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるように
と願っています。(ローマ人への手紙一章9節後半、10節)
絶えず祈りなさい。(テサロニケ第一の手紙五章17節)
パウロは自ら開拓した教会のみならず、行ったことのない教会のためにも祈っていました。ローマにある教会
にも是非行きたいと願って祈っていたのですが、様々な理由で行くことができません。しかし祈りの中で手紙を
書き送ることを示され、こうしてキリスト教信仰において最も重要な書の一つと言われる、「ローマ人への手紙」
が誕生しました。また、神様はパウロの祈りを覚えていてくださり、やがて不思議な方法で彼をローマに導いて
くださったのでした。
誰でも最初は他者の祈りに学ぶことで、祈りの言葉が整えられていきます。また、聖書から教えられて、言葉
だけでなく内容や姿勢も変えられていきます。しかし、祈りを最も大きく変えるのは、祈ることによってです。祈っ
ても応えられないことによって、自分の祈りを顧み、自己中心や不信仰を示されることがあります。祈りが応えら
れることを通して、信仰が成長し、確信をもって祈るようになります。祈りが応えられるまでに時間がかかること
で、神の時があることを教えられ、また祈りにおける忍耐力が養われます。ダイヤモンドがダイヤモンドによって
しか磨がれないように、祈りは祈りによってのみ変えられ、成長するのです。
ですから、祈りの成長を妨げるのは、祈らないことです。祈らない原因はさまざまです。人の評価を気にする
虚栄心や、祈ってもダメではないかと思いこむ不信仰が、私たちを祈りから遠ざけることがあります。祈り方や
祈りの意味を知らないために、祈りの重要性に気がつかないかもしれません。もちろん、忙しいことや苦難の中
にいることが祈りから私たちを引き離してしまうこともありますが、それはむしろ祈らなくてはならない理由です。
まず、祈りましょう。どんな言葉でもかまいません。次に、祈る習慣を身につけましょう。できれば、聖書を読んで
から祈ることをお薦めします。そして、祈り続けましょう。神様の時が来たら、自分の祈りが変えられていることに
気がつくのです。どんな祈りの勇者、祈りのベテランも、最初は初心者です。神様はあなたが祈りの人となるこ
とを待っておられるのです。

主のなされた祈り
2013-03-01
千代崎 備道
さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。
「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
(ルカの福音書 十一章 1節)
主イエスが教えられた祈りというと「主の祈り」が有名ですが、それだけではなく、イエス様はさまざまな機会
に弟子たちに祈りに関して教え、また実際に祈っている姿をお見せになり、お聞かせになりました。ゲツセマネ
での祈りも、弟子たちが聞こえるところで祈られたのは、その祈りを知って欲しかったからです。そのような祈
りの実践例として重要なものの一つは、十字架上の祈りです。
十字架で語られた七つの言葉の中で、明らかに祈りであるのは三つです。十字架につけられて最初にされた
祈りは、「父よ。彼らをお赦しください」(ルカ二十三・34)でした。苦難のただ中で、しかもその苦しみを与えてい
る人々が赦されるように、とりなしの祈りをなさったのです。私たちも、この祈りの対象に含まれています。です
から、クリスチャンの祈りは、自分のためだけでなく、とりなしの祈りであるのです。
第二は、有名な「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイ二十七・46)です。これは
詩篇二十二篇の引用として、絶望や敗北ではなく、苦難の中での信仰を告白しているのですが、もちろんイエス
様の苦しみを赤裸々に述べたものでもあります。人間には限界があり弱さがあります。その中で神様に正直な
気持ちで「苦しいです」と訴えることは、決して不信仰ではありません。どんな祈りでも、砕かれた心からの言葉
を神は受けとめてくださいます。
第三は、「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ二十三・46)との祈りです。最後は、主に委ねるのです。
出来ることを誠実に実行しても、なお足らないことがあります。逆に、自分の力で結果を左右しようとして握りし
めてしまうこともあります。最後は、全てを神に委ねるとき、神様がご栄光を現してくださるのです。
十字架の祈りは、肉体を持って人間として歩まれた主イエスにとって、ギリギリの限界でなされた、私たちのた
めの祈りの教えです。私たちも苦難の中で絶望しそうになるかもしれません。その時、イエス様が私のために十
字架にかかり、私のために祈ってくださったことを覚え、私も天を仰いで祈る者となりましょう。
