み言葉のいづみ
私の手ではなく
2024-05-01
千代崎 備道
彼らは、自分の剣によって地を得たのでもなく、自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。
(詩篇四十四篇3節)
牧師の仕事には様々なことがありますが、一番大切なことの一つは説教でしょう。神の言葉を教会に伝える。単なる講演会ではありません。気をつけなければ教会の人たちが御言葉を間違って理解するようになり、知らずに御心に背くようになったら大変です。自分は本当に聖書を正しく語っているだろうか。この重要な問題に取り組むことも留学の目的の一つでした。
自分でもそれなりに聖書を理解しているつもり、と考えていたかも知れませんが、世界から集まってくる優秀な留学生(牧師も多くいます)と比較するなら自分は何て力が足らないか痛感します。追求しようと選んだ研究テーマは、学べば学ぶほど、思っていた以上に大きな課題であり、自分の手には負えないと思いました。でも最後に気がついたのは、神様が私に分からせ、伝えさせてくださることを忠実に語る、ということでした。
留学中は学生牧師として一つの教会を牧会するようになりますが、学生ですから勉強のために時間を費やさなければならず、出来る働きも限られています。人数が減少していき、ついには閉鎖もやむなしか、と悩むようになったころ、再び救われる人たちが起こされ、教会も成長していきます。留学生仲間であった神学生や牧師たちが力を貸してくださり、また信徒の方たちも協力してくださり、順調に教会が形成されていった矢先、中心となっていた役員一家が突如帰国となり、出鼻を挫かれます。でも神様はさらに導いてくださり、教会は次のステップへと前進していきました。
私たちは自分の力でできると思っています。全てのことは無理でも、自分の専門分野なら自力で出来る。また沢山の人と力を合わせれば出来ることは多くなる。でも、どこかで自分の力や集団の力にも限界が来て、出来ないときがあることを痛感します。そのとき、自分の考えていた以上に神様の御腕が私たちを支え、導いていてくださることに気がつかされるのです。私の腕が短いと分かるとき、それは神様の御腕が私にも伸ばされている恵みに気がつくときなのです。ですから、「私たちは・・・窮することはありません」(第二コリント四8)。主の御腕が私たちを救ってくださるからなのです。

主の手は命と死をも越えて
2024-04-01
千代崎 備道
よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが、今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。
(イザヤ書三十八章18~19節)
復活を知らなかった旧約時代の信仰者たちは、命の危険の中で祈る時に、「死んだら神様を賛美できないので、生かしください」という祈りを度々捧げました。ヒゼキヤという王は国際危機が迫る中で不治の病であることを告げられ、自分のためではなく国を守るために、必死で神様に延命を求める命をしたことがイザヤ書や列王記に記録されています。神様は彼の祈りを聞き入れて、寿命を十五年延ばしただけでなく、神様が国の都を守ると約束をしてくださったのでした。冒頭の聖句は、その時の感謝の祈りです。
人々は神様だって死んだらどうすることもできない、という考えの中におりましたから、そのように祈るしかなかったのです。でもキリストの復活により、私たちも死んだ後に天国で永遠の時が与えられると信じることができ、さらに天の御国では救われた大群衆が国や言語を越えて一緒に神様を賛美している様子が黙示録に描かれています。
神様の御手はどこまで伸ばされるのでしょうか。人間の理解では、死の先には届いていないかのように考えてしまいます。でも「主の手は短かろうか」。死さえも越えて伸ばされているのです。私たちが死んだ後にどうなるかは、知ることはできません。でも、神様を信頼することができます。きっと神様は最善のことをしてくださる。そう信じること、私たちは平安と希望をあたえられるのです。
昨年暮れから今年初めにかけて何人もの兄弟姉妹を天に送りました。また新しい命の誕生もありましたし、キリストを信じて救われ永遠の命を受けた方もおられます。「母の胎にいるときから、白髪になるまで」、いいえ、黄泉に下ってさえ、神様は生ける者も死せる者も支配しておられるのだと私たちは信じています。
自分の手では届かないときは、神様の御手に委ねましょう。私たちが考えていること以上のことを神様はなさることがおできになるし、また不思議なことをしてくださるのです。そのことを信じて、今は、生かされている私たちにできる限りのことをするのです。今、生きている意味も人生の目的も、全ては神様と共にあります。ただ主を信頼し、従っていこうではありませんか。

主の手は命と死をも越えて
2024-03-01
千代崎 備道
よみはあなたをほめたたえず、死はあなたを賛美せず、穴に下る者たちは、あなたのまことを待ち望みません。生きている者、ただ生きている者だけが、今日の私のように、あなたをほめたたえるのです。
(イザヤ書三十八章18~19節)
復活を知らなかった旧約時代の信仰者たちは、命の危険の中で祈る時に、「死んだら神様を賛美できないので、生かしください」という祈りを度々捧げました。ヒゼキヤという王は国際危機が迫る中で不治の病であることを告げられ、自分のためではなく国を守るために、必死で神様に延命を求める命をしたことがイザヤ書や列王記に記録されています。神様は彼の祈りを聞き入れて、寿命を十五年延ばしただけでなく、神様が国の都を守ると約束をしてくださったのでした。冒頭の聖句は、その時の感謝の祈りです。
人々は神様だって死んだらどうすることもできない、という考えの中におりましたから、そのように祈るしかなかったのです。でもキリストの復活により、私たちも死んだ後に天国で永遠の時が与えられると信じることができ、さらに天の御国では救われた大群衆が国や言語を越えて一緒に神様を賛美している様子が黙示録に描かれています。
神様の御手はどこまで伸ばされるのでしょうか。人間の理解では、死の先には届いていないかのように考えてしまいます。でも「主の手は短かろうか」。死さえも越えて伸ばされているのです。私たちが死んだ後にどうなるかは、知ることはできません。でも、神様を信頼することができます。きっと神様は最善のことをしてくださる。そう信じること、私たちは平安と希望をあたえられるのです。
昨年暮れから今年初めにかけて何人もの兄弟姉妹を天に送りました。また新しい命の誕生もありましたし、キリストを信じて救われ永遠の命を受けた方もおられます。「母の胎にいるときから、白髪になるまで」、いいえ、黄泉に下ってさえ、神様は生ける者も死せる者も支配しておられるのだと私たちは信じています。
自分の手では届かないときは、神様の御手に委ねましょう。私たちが考えていること以上のことを神様はなさることがおできになるし、また不思議なことをしてくださるのです。そのことを信じて、今は、生かされている私たちにできる限りのことをするのです。今、生きている意味も人生の目的も、全ては神様と共にあります。ただ主を信頼し、従っていこうではありませんか。

恐れるな、主の手は短かくない
2024-02-01
千代崎 備道
恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
(イザヤ書四十一章10節)
現代は不安の時代です。もちろん昔から天災があり戦争などの社会的な混乱はありました。命に関わる病は、医学の発達していない時代には今よりも恐ろしかったでしょう。しかし現代の私たちは、失いたくないものが増え、ちょっとしたことで平穏な日常が崩れてしまいます。何よりも、神様への信頼感が損なわれている時代、頼るのが人間であり自分であるなら、力が及ばないことがあれば、たちまちに不安に囲まれてしまいます。
神様が人間に語る言葉は、昔も今も変わりません。「恐れるな」、「恐れてはならない」という御言葉が旧約聖書にも新約聖書にも何回も出て来ます。今も神様は私たちに語っておられます。「恐れなくて良いのだ」と。
池の上教会では、昨年終わりから立て続けで五人の兄弟姉妹を天に送りました。寂しさを感じると共に、これまで共に歩み、共に主に仕えて来た方にとっては、これからどうなるか、という不安があります。これからも天に召される方があるということは厳粛な事実です。教会は、そして私たち一人一人はどうなるのでしょうか。
私たちは、それでも御言葉の約束を信じ、天国の希望を堅く持ち続けます。「死の陰の谷を歩むとも災いを恐れません」との詩篇を思い起こし、いかなる困難が待ち受けていても、ついに地上の生涯が終わるときが来ても、主の手に守られていることを信じましょう。
日本だけでなく多くの先進国で少子高齢化が叫ばれています。多くの教派や教団でも信徒の高齢化、若者の流出や減少、そして牧師不足が課題となっています。十年、二十年先にはどうなっているでしょう。複数の教会を兼任する牧師が当たり前になり、それでも足らずに無牧となる教会、他教会と合同や、あるいは閉鎖。信徒数の減少は人材的にも経済的にも教会の働きも交わりさえも維持できなくなる「限界集落」ならぬ」「限界教会」。不安は尽きません。
だからこそ、私たちはもう一度、主の御言葉に耳を傾け、「私の義の右の手で、あなたを守る」と言ってくださる主の助けを信頼して、仕えてまいりましょう。自分たちの力では足らないとき、もうどうすることもできないと諦めたくなるとき、それでも「主の手は短かろうか、いいや、そうではない」と信じて、主の手の助けを仰ぎつつ祈りましょう。

主の手は短かろうか
2024-01-01
千代崎 備道
主はモーセに答えられた。「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」
(民数記十一章23節)
天地を造られた神は全知全能のお方です。人間が考えそうなことはご存じです。でも人間は有限の存在であり、時には自分が間違った考えをしていることさえ分かっていない。ですから神様はあえて問いかけ、私たちの間違いに気がつかせてくださるのです。
聖書の中にはたびたび反語と呼ばれる表現が出て来ます。今年の教会の標語「主の手は短かろうか」とは、主の手は短いと言っているのではなく、「短いと言うのか、いいや、決してそうではない」という強い否定を意味します。以前は、どうしてこんなひねくれた言い方で語られるのか、と不思議に思っていました。ストレートに「主の手は短くない」と言えば分かりやすいのに。でも、聖書を読み続けているうちに、神様が自分にも問いかけていることに気がつくのです。私は、もしかして主の手が短いと思っていなかったか。神様は、そうではないぞ、主の手はお前が思っているより遙かに長いのだ、と語っておられるのです。
二〇二四年は年明けそうそう能登半島で大地震があり、飛行機の事故があり、今年は大変な年になりそうだと予感された方もおられるでしょう。池の上教会にとっても、昨年末に何人もの方が天に召され、まだ受け止めきれない思いもあります。コロナがすっきりと終わったとは言えない中で、かといっていつまでも留まり続けることはできませんので、前進していかなければなりません。しかし本当に大丈夫だろうか、と現状を見ると不安を払拭できません。
その時、私たちは知らないうちに、私たちと共にいてくださる神様の手が短いと思っているのです。神様だって、こんな状況の私たちを助けることは出来ないのではないか、と。本当にそうでしょうか。主の手は、決して短いはずがないのです。神様が何をなさるかは分かりません。私たちの願いが叶うということではありません。でも、神様が池の上教会の上に、また神様を信じる私たち一人一人の人生に、必ず御手を伸ばしてくださると信じるのです。
厳しい荒野を旅していた民は、周囲の状況を見て神様に背きました。モーセでさえ、神様の力を信頼できずに、「イスラエル全員に肉を飽きるほどに与えるなんて、いくら神様でも無理です」と思ってしまった。そのモーセに「主の手は短かろうか。私を信じなさい」とチャレンジなさったのです。私たちも神様のお言葉を受け止め、もっと神様を信頼して前進していこうではありませんか。
