み言葉のいづみ
ここにも神はおられる
2011-10-01
千代崎 備道
私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、そこでも、あなたの御手が私を導き、あなたの右の手が私を捕らえます。
詩篇 139篇 9~10節
私たちは、神様から離れてしまうことがあります。自分の意志で、あるいはやむを得ない事情
で、教会に来ることができない時があるかもしれません。また、礼拝に通っていながら、心の
奥底では神様に対して心を閉ざしてしまうこともあります。頑なになって、心の中の罪を認め
たくないために、神様が見えなくなる場合もあります。それは神様がいなくなってしまったの
でしょうか。おられたとしても、私からは遠くにおられて、私は見捨てられてしまったので
しょうか。
預言者ヨナは、明らかに神様に背いて、遠い地に逃げようとして、海の底に沈んでしまいま
したが、神様が遣わした大きな魚の腹の中で、神に祈り、神もその祈りを聞いてくださいまし
た。創世記のヨセフは兄弟たちによって奴隷として売られてしまい、父ヤコブと、そして父と
共におられると信じていた神様から離れてしまったかのようでしたが、エジプトの地において
神は彼と一緒にいてくださいました。どのような原因であれ、神様は遠く離れたと思ったその
場所で、彼らを取り扱い、恵みを与えてくださったのです。そして、ヨナはもう一度、神様の
示す地に遣わされ、ヨセフの子孫は約束の地に戻ることが出来ました。
不信仰に陥ったときも、自分ではどうすることもできない苦難の中で弱り果てるときも、神
様はその場所で私たちを導き助け、また信仰を成長させてくださることがお出来になるお方な
のです。そのような経験をしたとき、私の人生の中で神様のおられる領域が広がります。調子
の良いときや熱心なときだけの信仰ではなく、どんなときでも神様が私を捉えていてくださる
のです。それは私たちの信仰が広げられる経験でもあります。私たちの失敗でさえも用いて、
主は私たちを成長させてくださいます。
これから年末にかけて、社会も忙しくなりますが、教会も一年で一番、行事の多い時期にな
ります。慌ただしさの中で、いつのまにか神様から心が離れてしまわないように気をつけま
しょう。もし、心が離れてしまうようなことがあっても、その場所で立ち止まり、共にいてく
ださるお方に心を向け、御言葉に耳を傾けましょう。

広げられる恵み
2011-09-01
千代崎 備道
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実
だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
マタイの福音書25篇21節
タラントの譬え(14~30節)と呼ばれる、この有名な譬え話のポイントは、三人目の悪いしもべであり、イエス
様の言葉を聞いても信じようとせず、神に対して不忠実である人々に対しての厳しい教えです。しかし最初の二
人のしもべが共に主人から「良い忠実なしもべ」と誉められていることに目がとまりました。
最初のしもべは5タラント(タラントは六千日分の賃金に相当)を主人から預けられて、それを有効に活用して
倍に増やし、主人に利益をもたらしました。その忠実な働きが認められ、彼は儲けた額も併せて、十タラントを預
かる立場となったのです。主人が彼に五タラントを託したのは、それを管理できる能力があると見込んだからで
す。そのしもべが十タラントを預けられることになったとき、彼は自分の能力を越える働きを命じられたのでしょう
か。いいえ、彼は主人から与えられた5タラントを活用する働きを忠実に行うことを通して、資金を倍に増やした
だけでなく、彼の能力も倍になったのです。そして、主人は譬えの最後でもう1タラントを加え、彼がさらに成長で
きるように導いているのです。
この主人は神様のことであり、しもべは私たちです。神様は私たちのことを良くご存じで、その人が担うことの
できる使命や試練をお与えになり、必要な力や助けも与えてくださいます。私たちに求められていることは、主人
である神様への忠実さです。自分の力に頼るのではなく、信頼して委ねてくださったお方に頼り、与えられてい
る能力(タラント)を十分に用いて、その働きや困難に立ち向かっていくときに、主が私たちを用いてくださるのです。
の上教会は「地境を広げてください」との祈りを持って始まりました。大震災とその影響という大きな
困難もあり、また例年にも増して多くの働きがあったように感じます。しかし、神様は働きを広げてくださっただ
けでなく、それに応じて、働き人を増し加えてくださり、力も強めてくださいました。私たちが忠実に主にお仕え
するなら、結果は主が与えてくださいます。そのように信じる信仰をも広げてくださるのです。今年の御言葉を
思い起こし、主に忠実に歩みましょう。。

平和の君
2011-08-01
千代崎 備道
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。・・・・
その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。
今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。
イザヤ書 9章 6~7節
毎年、八月になると、平和について考えます。ヒロシマとナガサキ、そして終戦記念日。世界が平和になるこ
とを願い、祈ります。しかし同時に、今も戦争とその後遺症、各地の争い、難民の苦しみが続いていることを思
うとき、平和の実現は遠く感じます。
先日、知人がある本の書評を述べている中で、初めて知ったことがありました。ユダヤ教の超保守派の一部
には、現在のイスラエル国を生み出したシオニズム運動に反対する考えがあるそうです。それは、メシア(救い
主)に導かれるのではなく、武力により国家を作ることは、民族主義なのであって、律法(聖書)に従っているの
ではない、という意見です。ユダヤ人の中にも様々な意見があることを感じました。
世界の平和のため、という大義名分を掲げながら、その実、自分たちの主義思想を押し通そうとして争い合っ
ている人々もいます。素晴らしい目的であっても、それを人間の力だけで実現しようとするとき、必ず混乱が生じ
ます。クリスチャンであっても同じ過ちをすることがあります。神に信頼して従うことよりも、自分の正しさに固執
するなら、それは人間の業なのです。
決して、世界規模のことだけではなく、身近なところでも同じことが起こります。周囲の人とのトラブルにおい
て、自分は正しいと思って相手を非難しますが、それは本当の正しさなのではなく、自我を押し通そうとする自己
中心による「義」であって、神の前での義ではありません。本当の義とは、神の前に自分の罪を認め、キリストの
十字架によって赦され、神から賜るものです。そして罪赦された罪人であることを自覚して、謙って互いに仕え合
うときに、どちらが正しいかという争いではなく、神の正義と平和がお互いの間に実現するのです。
他者が悪い、と決めつけるのではなく、誰よりも先ず自分自身が十字架の前に立つことから始めましょう。その
時、平和の君であるお方が、私の心から平和を作り出してくださるのです。

豊かな収穫を期待する
2011-07-01
千代崎 備道
「実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくだ
さるように祈りなさい」。
ルカの福音書 10章 2節
東日本大震災から四ヶ月が過ぎ、報道で取り上げられることも以前よりは少なくなってき
ました。しかし、まだ避難所生活の方々もおられ、辛い思いで過ごしておられる方は減って
はいません。生活や産業の復興に向けての動きも始まっていますが、それとともに困難や課
題も明らかになっていきます。
も多くあります。そのご
苦労を思ったとき、農家の方々は毎年のように様々な苦労をしておられたことを思い起こし
ました。干ばつや水害、台風、冷害、病気や害虫。その年々の災害に対処するだけでなく、
日々の世話もあります。その多くは酷暑の時期です。そのような苦労の末に、収穫の時を迎
えたとき、その喜びはどれほど大きいでしょうか。
イエス様は度々、農業に関わるたとえ話をされました。種まきの例えが有名です。当時の
人々には身近なことで、分かり易かったでしょう。また、宣教の働きそのものを農業に例え
ていることもあります。苦労して御言葉の種を蒔き、水をやり、雑草を取る。そして、恵み
の収穫があります。
「成長させたのは神です」とパウロが言っているように、宣教は主の働きであり、人間の
力によるのではありません。しかし、キリストは私たちにその働きを委ね、一緒に働いてく
ださいます(マルコの福音書 16章 20節)。それは労働の苦労を共にさせてくださり、
収穫の喜びを味わう特権を与えるためです。すでに生ける神の言葉の種が蒔かれているので
すから、時が来たら必ず実を結ぶのです。収穫は豊かに準備されていますが、主と共に働く
ことを願う働き人が足らないので、実りの時を遅くして待っておられるのです。
今年は、地境を広げる祈りをもって始まりました。多くの困難があり、苦労があります。
しかし、収穫の秋は近いのです。収穫の主が約束しておられるのですから、豊かな収穫を期
待し、さらに働きを進めていきましょう。御言葉の種は、私たちの心の中には聖霊の実(ガ
ラテヤ人への手紙 5章 22節~23節)を結ばせ、この地には救われる人を起こしてくだ
さいます。 暑い日が続きますが、日々、御言葉の種を心にいただき、また証しと伝道によ
る種まきを心がけましょう。
農地の被害も深刻で、汚泥や地割れのために使えなくなった田圃

聖霊を待ち望む祈り
2011-06-01
千代崎 備道
この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を
合わせ、祈りに専念していた。
使徒の働き 1章 14節
ペンテコステとは聖霊が弟子の群れに降り、教会が始まった日です。正確には、聖霊なる神様
はすでに地上で働いておられ、旧約聖書にも現れておられ、またキリストの地上での生涯を支
えておられました。しかし、御子が天に昇られて見えなくなってから、聖霊による働きが顕著
に始められたのがペンテコステです。
弟子たちはイエス様から聖霊の約束をいただいており、エルサレム(最後の晩餐の部屋?)
で、祈りつつその時を待ち望んでおりました。ある学者は、彼らは約十日間、悔い改めの祈り
をしたと言います。十字架以前は誰が偉いか争い合い、最後はイエス様を見捨てて逃げてしま
った。彼らはそれを徹底的に悔い改め、使徒の働きでは一致協力し、一番を争い合うこともな
くなり、迫害されても逃げなくなったのです。悔いた砕けた心に聖霊は降られ、素晴らしい働
きを始められたのです。教会の歴史の中でも、悔い改めの祈りからリバイバル(信仰復興)が
始まったことが度々ありました。今も、私たちが自分の罪を悔い改め、神様の前に謙るなら、聖霊は豊かに働いてくださいます。
聖霊は、『使徒の働き』の時代のように、奇蹟を用いて働かれることもあれば、さまざまな
人を用いなさることもあります。聖霊の大切な働きの一つは、御声を語りかけてくださること
です。預言者エリヤが火や風の後で主の細き御声を聞いたように、私たちの人生に突然に引き
起こる出来事を通して語りかけたり、他の人の言葉や証しを通して訴えてくださることもあり
ます。ただ、人間の世界には罪があるため、全てのことが聖霊の声なのではありません。聖霊
は、聖書を通して私たちに確かな御声をかけられます。聖書の本当の著者は聖霊だからです。
聖霊の御声を聞くには、心開いて、謙る思いが大切です。高慢や自己義認の心は頑なに自分
の考えに囚われて、細き御声を聞くことができないのです。重荷を主に委ね、自分を正しいと
せずに罪を悔い改め、また高慢にならずに弱さを認める。その時、聖霊は私たちの心を造りか
え、人生を新しくすることがお出来になるお方なのです。信仰生活に行き詰まったとき、いえ
順調だと思い込んで躓かないためにも、主の前に心を注いで、祈り続けましょう。
