み言葉のいづみ
神の働かれる時
2011-05-01
千代崎 備道
サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
使徒の働き 8章 3~5節
『使徒の働き』は最初の教会の歴史を描いています。聖霊による華々しい働きの拡大と同時に、反対者たちの
妨害も大きくなり、ついにステパノの殉教をきっかけに大迫害が起こり、せっかく成長して大きくなった群れは離
散してしまったのです。信仰をもって大胆に宣教をしたのに、なぜこんなことになってしまったのか。普通でした
らキリスト教の歴史はこのまま幕を引いていたかもしれません。しかし、キリストを信じて救われて間もない人々
は、散らされたにも関わらず、行く先々で福音を伝えていったのです。そしてユダヤ人が蔑んでいたサマリヤの
人々にも救いが伝えられたのでした。
人間の目で見るならば挫折や危機と思えることでも、神様は御旨を行う機会となさいます。使徒の働きはイエ
ス様の宣教命令により始まりました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そ
して、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒一8)。
エルサレムに留まり続けていた教会は、迫害をきっかけに周辺のユダヤ地方のみならず、ユダヤ人なら福音を
伝えなかったかもしれないサマリヤ地方にも拡大し、さらに世界宣教の担い手となるサウロ(後のパウロ)まで用
意されていたのです。
ある先生はクリスチャン人生をボクシングに譬えて、「クリスチャンはノックダウンされることはあっても、ノックア
ウトされることはない」と語られました。ノックダウンでさえも神が働かれるチャンスと成るのです。自分の計画が
頓挫したとき、それは神の計画が実現し、神の栄光が顕される時なのです。
今年は「天幕を広げよう」と標語を掲げてスタートしましたが、大震災が起こり、日本中が前進を阻まれている
かのように見えます。しかし、主を信じる者にとっては決して行き詰まりではありません。人間の弱さや限界を超
えた神様の御心が成されることを祈る時なのです。教会の働きを神様が広げてくださることを信じて励みましょ
う。また、被災地の方々や、試練を味わっておられる方の上にも、この神様の恵みと助けが豊かにあるように祈
りましょう。

あなたはこれを信じるか
2011-04-01
千代崎 備道
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死ん
でも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じま
すか。」
(ヨハネ 11章 25~26節)
少しずつ被災地は復興に向けて歩み出し、日本全体でも様々な働きが再開しています。回復には時間が掛か
りますし、まだ避難所で困難な生活をしておられる方も多くおられます。行方不明の方も少なくありません。それ
でも、前にも目を向けて行こうとしておられる方々のために、私たちも出来ることをさせていただきましょう。
しかし、どれほど復興が進み、活気を取り戻したとしても、なお忘れることができないことがあります。愛する人
を失った悲しみと心の傷は、慰められ癒されたとしても、消えることは無いでしょう。そのことを思うとき、ただ神様
の憐れみを求めるのみです。
冒頭の聖句はイエス様がラザロの死に際してマルタに言われた言葉です。この「死んでも生きる」「死ぬことが
ない」が、肉体的な生命のことだけではないことは明らかです。キリストを信じてクリスチャンとなっても死ぬとき
が来るのは事実ですが、永遠の命に生かされ天国に入れていただける、それも真実です。でも、それだけなの
ではありません。
この章の後半でラザロは生き返ります。しかし、そうなる前に、弟を失った悲しみのただ中にいるマルタに、イ
エス様はこの言葉をかけられたのです。ラザロの復活を見たなら、信じるのは当然です(それでも信じなかった
人々もいましたが)。しかし、まだ何も起こっていない、現実は何も変わらない状況の中で、復活の信仰を持つよ
うにチャレンジをしておられるのです。口語訳聖書は「あなたはこれを信じるか」と訳しています(傍点は千代崎)。
被災地の方々に、また愛する人を失った方々に、今すぐにこの御言葉を伝えるのは難しいかもしれません。し
かし、今、私たちが先に主の御言葉を信じ、どのような困難の中にいても復活の信仰を持って、希望を持って歩
み、愛の業に励むなら、やがて神様が祈りに応えてくださいます。
今年も十字架と復活を記念する時を迎えました。罪人の私を救うために十字架につき、黄泉にまで下ってくだ
さった方が、死の時だけ私を見捨てるはずがありません。どんな苦難の中にいても共に歩んでくださり、復活の
希望を与えてくださるのです。

恐れるな
2011-03-01
千代崎 備道
あなたを造り、あなたを母の胎内にいる時から形造って、あなたを助ける主はこう仰せられる。
「恐れるな。わたしのしもべヤコブ、わたしの選んだエシュルンよ。」
イザヤ書 44篇 2節
古今未曾有の大災害が東日本を襲いました。多くの方が亡くなり、行方不明となりました。被災者の方々は
避難生活を強いられています。余震がまだ続いています。原発の事故、停電と交通の混乱、燃料不足による
流通の混乱。その中でデマも飛び交います。
私たちは被災者の方々のために祈り、また出来ることを通して愛の手を差し伸べていきたいと願っています。
同時に、私たち自身も多くのストレスで心が傷つき、今までとは違う毎日により疲れが溜まって来ます。自分
のためにも、主に助けを仰ぐことが必要です。
誰もが恐れを抱きます。健康のこと、仕事のこと、家族のこと。それは今回のような大災害のときに限らず、程度の差があったとしても、いつでも誰もが不安を抱くことがあるのではないでしょうか。そのような私たちに、神様は「恐れるな」と言われます。
旧約聖書の中に少なくとも39回、「恐れるな」と言う言葉が使われ、14回がイザヤ書に集中し、そのうち10回
が40章以降に出てきます。この部分は、やがて国が滅亡してバビロン帝国に捕囚として連れて行かれる人々
への預言です。戦争により国は荒廃し、多くの命が失われ、そして捕虜となって遠い地で苦難の生活をしなけれ
ばならない。その中で恐れを抱かない人がいるでしょうか。特に神を信じる人々は、神から見放されたのではな
いかと恐れたことでしょう。その人々に神様は「恐れるな」と何度も語りかけておられます。
恐れなくて良い理由は何でしょうか。捕囚地から故郷に帰る時が来るから、神様の助けがあるから、だから恐
れないのか。それならば、また次の帝国が出現したとき、同じ恐れが生じるかもしれません。大切なのは、「わ
たし」と言われる神様です。「わたし」であるお方がどんな時にも共にいる。だから、恐れないで良いのです。この
お方が「あなた」と呼びかけておられる。だから心配しないでよいのです。そして、この神様は今も、私たちに「恐
れるな」と呼びかけておられます。信仰の目をもって神を見上げつつ、今日も歩んでまいりましょう。
(註 「エシュルン」は申命記33章にも使われているイスラエルの別名で、日本のことを「やまと」と呼ぶような
古語です)

信仰を広げてくださる主
2011-02-01
千代崎 備道
しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」
すると、彼女の娘はその時から直った。
マタイ 15章 27~28節
福音書の中でキリストはユダヤ人だけを相手にしているように見えることがあります。それは、旧約聖書で預言
された救い主はイスラエルに遣わされて十字架につけられるのであり、キリストの使命は十字架にかかって救い
の道を完成することだからです。異邦人を含む、全世界への宣教は教会に与えられた使命です(使徒1・8)。
しかし、時々、イエス様が溢れる愛の故に異邦人に手を差し伸べることがあります。この箇所では、苦しむ娘を
助けて欲しい異邦人の女性がイエス様のもとにやってきました。しかし、イエス様は、最初は彼女を無視し、次
には「異邦人は相手にしない」と拒絶します。それでも娘を救って欲しい一心で、彼女は願い続けます。
「すると、イエスは答えて、『子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです』と言わ
れた。」(26節)
異邦人を犬扱いするとは、イエス様もユダヤ人至上主義なのでしょうか。しかし、彼女は「子犬でもおこぼれを
もらいます」と、諦めなかったのです。もし、この女性が、ユダヤ人は異邦人を相手にしないという当時の常識に
留まっていたら、奇跡はおきませんでした。この出来事はキリストの救いは民族の垣根を越えて、広げられてい
くことを示したのです。

天幕を広げよう
2011-01-01
千代崎 備道
私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわい
から遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願った
ことをかなえられた。
第1歴代誌 4章 9~10節
あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄の
くいを強固にせよ。
イザヤ書 54章 2節
「祝福する」という言葉は、普通は神から人に対して使われ、同じ動詞を人から神に対して
使うときは「誉め讃える」という意味になります。祝福するのは神様の業です。祭司の祝福も
神様が源です。
「地境と広げよう、天幕を広げよう」と聞くと、つい私は「では何をしたら良いだろうか」
と考え始めてしまいます。具体的な行動は必要であり大切ですが、それに終始してしまうと、神様の助けや恵みに目が向かなくなり、神様の祝福をいただいていることに気が付かず、神様
に感謝して誉め称えることも忘れます。人間の力で何かを始める前に、まず神様の助けと守り
を願い、祝福を求めることが祈りです。最初に祈るならば、祝福に目が向けられて感謝と賛美
が生まれ、そのような心には、ますます祝福が注がれるのです。
そして、どうせ祈るならば、大胆に祈りましょう。祈る相手は、祝福の源である神様だから
です。「あれをください、こうしてください」と実際的な祈りをすることも良いですが、人間
の考えをはるかに越えることがお出来になるお方に「大いに祝福してください」と祈り、期待
をするなら、神様も頼られ甲斐があります。さらに、自分のためだけではなく、周りの人のた
め、神様の働きのためにも、大きな祝福を求めるなら、神様はその祈りを喜んで、褒めてくだ
さるのではないでしょうか。
神様に期待をして祈り、祝福をいただくなら、与えられた全てのことが感謝となり、喜びに
溢れる人生となります(第1テサロニケ5章16~18)。そして、感謝は主を誉め讃える賛
美となり、神の栄光が現されます。信仰をもって大胆に祈る。まず、祈りの天幕を広げましょ
う。そうすれば、神様が祝福を大きくし、地境を広げてくださるのです。池の上教会の51年
目、新しい歴史の上に、また信仰生涯をおくる一人一人の上に、大いなる祝福があります。
