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み言葉のいづみ

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流れ出る命の水

2009-04-01
千代崎 備道
 
  川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい
 
実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
 
エゼキエル書四十七章十二節
  エゼキエルは捕囚時代の預言者です。神に従わず罪を犯して、イスラエルもユダも滅びました。バビロンに
 
捕虜として連れて行かれた人々は希望を失っていました。彼らの心は枯れ果てていたのです。神はエゼキエ
 
ルを遣わして御言葉を告げました。例えイスラエルが死んで骨になっても、神はそこから彼らを生かすことが
 
出来る(三十七章)。さらに神殿の基、すなわち神様のもとから命の水が流れ出て、彼らを潤し、実を豊かに
 
結ぶ民となることができる(四十七章)。これが神様の約束でした。
 
  この預言はイエス・キリストにおいて成就しました。イエス様は「わたしが与える水は、その人のうちで泉とな
 
り」(ヨハネ四・14)、また「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける
 
水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ七・38)と言われました。父なる神様のもとから来られた御子こそ、この
 
命の水です。そして、それはイエス様を信じる者に与えられる永遠の命なのです。
 
  さらにヨハネは御子のことを「ことば」と呼び、この言葉にこそ命があると言います(ヨハネ一・1、4)。イエス
 
様の命の水は聖書の言葉を通して注がれます。ですから私たちは御言葉を読み、御言葉に聴くことを大切に
 
しています。それは、日々、御言葉の糧、命の水をいただくときに、私たちは潤され、豊かにされ、実を結ぶこ
 
とができるからです。
 
  この四月より島津先生に代わり、私、千代崎が巻頭言を書かせていただくことになりました。しかし、メッセ
 
ージの源泉はこれまでと同じ御言葉であり、その中心はイエス様です。今まで島津先生を通して神様が語り
 
かけてくださったように、これからもこの『いづみ』誌が用いられて、読んでくださる皆様の心を潤し、命に満た
 
し、さらに流れ出て、周囲の方にもその恵みが及ぶようにしてくださることを、心から願っております。

キリストがあがめられること

2009-03-01
島津 吉成

  それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じること
なく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリスト
があがめられることです。
  私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
 
ピリピ1章20~21節
  パウロがピリピ人への手紙を書いたとき、彼は迫害のために捕えられ、獄につながれて
いました。また、パウロの働きをねたみ、彼が捕えられていることを逆にチャンスと考え
て、党派心という不純な動機から伝道している人もいました。このように、パウロは厳し
い境遇の中に置かれていたのですが、「このことを私は喜んでいます」(1:18)と言って
います。どうして、そのようなことを言うことができたのでしょうか。
  それは、「私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになった」(1:12)
からでした。パウロは、獄中で、自分を見張っている兵士たちにも福音を伝えたのです。彼
は自分が捕えられなければ、福音を聞く機会のなかったであろう人々に福音を伝えることが
できたことを喜んでいるのです。また、彼が捕らえられたことによって、多くのキリスト者
が奮起して、投獄されているパウロに代わって、大胆に福音を伝えるようになりました。彼
は、このことを心から喜んでいます。さらに、党派心という不純な動機からであったとして
も、ともかくキリストが宣べ伝えられていることを彼は喜ぶと言うのです。
  このように、パウロの切なる願いは、自分がどうであるかということではなく、キリスト
あがめられ、福音が前進することだったのです。「あがめる」とは、「大きくする」という
意味です。私たちは、自分が大きくされれば喜ぶし、小さくされれば面白くないと思ってし
まう。しかしパウロは、自分がどう評価されるかということに、関心を持っていないので
す。彼の願いは唯一つ、自分の生き方を通して、キリストが大きくされることでした。
そして、そのような生き方は、父なる神のみがあがめられることを求め続けられた、まさに
キリストご自身の生き方でもありました。ただキリストがあがめられることを切に願う。
それを何よりの喜びとする。ここに、すべてのキリスト者の生き方があるのです。

見よ。わたしは新しいことをする

2009-02-01
島津 吉成

  先の事どもを思い出すな。
  昔の事どもを考えるな。
  見よ。わたしは新しい事をする。
  今、もうそれが起ころうとしている。
  あなたがたは、それを知らないのか。
  確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
  野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。
  わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、
  わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
 
イザヤ 43章18~20節
 
  イスラエルの民は、宗教的にも、道徳的にも、政治的にも堕落してしまった結果、国は
滅び、多くの人々は、敵国バビロンに連れて行かれてしまいます。国は滅び、遠い異国で、奴隷の生活。彼らは将来に対して希望を持つことができず、失意と嘆きの中で、うなだれ
るだけでした。
 
  その彼らに、主は語られたのです。「先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考える
な。」「先の事ども」、「昔の事ども」とは、彼らの先祖がエジプトで奴隷であったとき、主が紅海を二つに裂いて、そこに道を造り、エジプトを脱出させてくださったときのこと
を指しています。彼らはそのこと思い出し、「私たちは大きな罪を犯してしまったため、あのような奇跡は、私たちの時代には再び起こらない」と言って、嘆いていたのです。
  しかし、主は言われるのです。「後ろばかり見ていてはならない。あなたがたの罪はわた
しが贖う。そして、あの出エジプトのときのように素晴らしい奇跡がこれから起こる。わた
しは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。だから、前を見てごらん。わた
しは荒野に道を、荒地に川を設ける」と。こう言われた主は、確かに荒野に道を設けてくだ
さいました。あの強大な帝国、バビロンを倒し、彼らが故郷に帰り、国を再建する道を開い
てくださったのです。
  あなたは、今、何を見ていますか。過去の栄光ですか。自らが犯してしまった失敗です
か。後ろではなく、前を見ましょう。そこには、ひとり子、主イエスを十字架につけてま
で、あなたの罪を贖い、あなたを限りない愛で愛し抜いていてくださる主がおられます。
その主はあなたの人生にも新しいことをしてくださいます。道のないところに、道を開い
てくださいます。

み言葉に聴き、喜びに生きる

2009-01-01
島津 吉成

  私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私に
とって楽しみとなり、心の喜びとなりました。
                                                              エレミヤ 15章16節
 
今年、私たちの教会はエレミヤ15章16節、「あなたのみことばは、私にとって楽しみ
となり、心の喜びとなりました」を標語のみ言葉として掲げ、「み言葉に聴き、喜びに生き
る」を今年のテーマとして歩んで行きたいと願っています。
  エレミヤが預言者として立てられた時代は、イスラエルの国が堕落し、ついにバビロンに
滅ぼされるというたいへん厳しい時代でした。エレミヤは、罪に染まり、堕落しきった民に
神の言葉を語りますが、誰も聞こうとしません。それどころか、エレミヤを激しく迫害する
のです。
  そのような厳しい状況の中で、エレミヤが語っているのが上記の言葉です。「み言葉を食
べる」とは、み言葉をよく噛み締めて、味わって、信じ受け入れるということです。そのと
き、平安、慰め、喜び、勇気が与えられるのです。こうしてエレミヤは、困難な状況の中で
再び預言者として立つ力が与えられたのです。ですから彼は、「あなたのみことばは、私に
とって楽しみとなり、心の喜びとなりました」と言ったのです。私たちも、エレミヤのよう
にみ言葉を食べましょう。喜びに生きる生活がそこから始まります。
  伝道者の書5章18~20節に、「労苦のうちに、しあわせを見つけ」、「自分の労苦を
喜ぶ」というみ言葉があります。労苦が過ぎ去ったら喜ぶ、というのではないのです。労苦
の最中に喜ぶ、というのです。どうして、そのような生き方ができるのでしょうか。エレミ
ヤのように、み言葉に聴き、み言葉を食べる、ここに鍵があると思います。日々、み言葉を
食べる。そこから、新しい力が与えられます。またこの務めは主が私に託してくださった務
めだ、という使命感が与えられます。さらに、主がともにいて助けてくださる、という信仰
が与えられます。こうして、喜んでその務めに向かうことができるようになるのです。「こ
ういう人は、自分の生涯のことをくよくよ思わない。神が彼の心を喜びで満たされるから
だ」(伝道5:20)。何という幸いな人生でしょう。み言葉に聴き、喜びに生きる生活が、ここ
にあります。

ここに愛がある

2008-12-01
島津 吉成
 
  愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな
 
神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
 
  神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
 
  私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての
 
御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 
愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべき
です。
 
(ヨハネ第1 4章7~11節)
 
  今年も、クリスマスの季節となりました。クリスマスと言えば、「赤」ですね。赤く色づいたポインセチアが
 
クリスマスの雰囲気を演出しています。
 
  なぜ、クリスマスの色が赤なのでしょうか。それは、主イエス・キリストが十字架の上で流された「血」を表
 
しているからです。
 
  神のひとり子であった主イエスは、すべての人を救う救い主として、クリスマスの夜、家畜小屋で人となって
 
お生まれくださいました。そして、33年のご生涯の最後に、すべての人の罪を代わりに負って、十字架に
 
かかってくださいました。一度も罪を犯したことのない主イエスが、すべての人の罪の身代わりとなって死んで
 
くださったのです。
 
  主イエスの両手と両足は、荒削りの木に釘で打ち付けられました。肉が裂け、血が流れました。すべての人
 
を救うために、これほどの犠牲を払ってくださった救い主の姿をすぐ近くで目撃した弟子のヨハネは、「ここに愛
 
がある」と言いました。神に背き、自分勝手な生活をしていた私たちです。それにもかかわらず、その私たちを
 
見捨てず、しかも、神のひとり子の十字架の死という大きな犠牲を払ってまで救おうとしてくださる神様。そのこ
 
とがわかるとき、私たちも、「どんなに神様が私のことを愛してくださっているか」ということに気づくのです。
 
  赤、それは主イエスの十字架による罪の赦しのしるし、そして、神の愛のしるしです。赤いローソク、赤いリボ
 
ン。クリスマスの赤を目にするとき、神の深い愛を思いましょう。
宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
〒181-0011
東京都三鷹市井口3-15-6
TEL.0422-33-0018
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