み言葉のいづみ
神の国に攻め入る者
2023-02-01
千代崎 備道
バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
(マタイの福音書十一章12節)
「神の国」のことを「天の御国」(口語訳聖書では「天国」)と呼ぶこともあります。天の御国を激しく攻めるとはどういう意味か、さまざまな意見が挙げられています。良い意味も悪い意味もあります。
バプテスマのヨハネがイエス様の先駆けとして登場して以来、イスラエルの人々は「天国」や「永遠の命」を願い求めました。でも、イエス様によらないでは神の国に入ることはできません。イエス様を救い主として信じることを拒んだ人たちは、それを受けることが出来ませんでした。
悪魔は、神様の働きに反抗して、神の国に入ろうとする人たちを邪魔して誘惑し、神の国の民を奪おうとします。多くの人が悪魔の甘言に惑わされて、キリストを拒み、離れていってしまいます。
私たちは神の国を求めているでしょうか。もし、神様を王とすることを拒み、自分の思い通りに生きることを第一とするなら、自分が王である自分の国を求めていることになります。「自分が正しく、他の人が間違っている」と他者を裁き、「自分が不幸なのは神様のせいだ」と神様を裁いているなら、それは自分を義としており、神の義からは離れています。
もし、私たちが何ものよりも神の国と神の義を求めて、神の国に入るために全力になるなら、それは「攻め入る」ような姿ですが、でも、神様はそのように求める者を喜んでくださり、「奪い取る」以前に、恵みとして与えてくださるのを受け取るのです。私たちは、どれくらい神の国を求めているでしょうか。二の次、三の次、いいえ、気が向いたら求めるけれども、他のものが全部手に入ってから、最後に天国を願おうか。それでは神様が喜んで迎え入れてくださるのでしょうか。
「激しく攻め」「奪い取る」とは物騒な言い方ですが、遠慮をせずに救いを求める人を神様は喜んでくださいます。旧約聖書のヤコブは、人を押しのける自己中心な人間でしたが、神様の祝福を願うことにかけては真剣でした。それがヤコブが兄エサウよりも神様に愛された理由です。新約聖書でイエス様に娘の癒やしを願った異邦人の女性は、貶(けな)されるような言葉を受けてもイエス様に求め続け、その信仰を賞賛されました。私たちも神の国とその義を真剣に求める者となりましょう。

神の国とその義を第一に求めよ
2023-01-01
千代崎 備道
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもとは全て与えられます。
そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。
こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがあなたがたに必要であることを知っておられます。
だから、神の国とその義をまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのもとは全て与えられます。
(マタイの福音書六章31~33節)
私たちは神様に何かを求めて祈ることがあります。世の中では祈りとは自分の願いを叶え、欲しているものを求めることですが、私たちは欲望のままに願い求めることが貪欲の罪であると知っています。でも、本当に必要なことを求めるのは決して貪りではありません。しかし、全ての人に一番必要である飲食について、神様は私たちが祈る前からご存じであって、父なる神様は必要なことは必ず与えてくださるはずです。ですからイエス様も、これらのことで心配して、思い患ってはならない(口語訳)と教えておられます。
では、私たちは何を求めたら良いのでしょうか。「神の国と神の義」こそ、第一に求めることだと御言葉は語っています。神の国は、王である神様に従うことです。強いられてでは無く、自ら進んで神様のお声に従うしもべとなるのです。また神の義は、自分の正しさを主張するのではなく、神様の正しさの前に悔い改め、従おうとしてもできない自分の罪を赦していただくことも神様の御心にかなった祈りです。第二、第三と、祈ることはさらにあるでしょうが、第一のことを第一とするなら、他のことは神様が整えてくださいます。
それでも私たちの祈りがいつのまにか自分中心になったり、神様への信頼に欠けて不安に陥ることもあるかもしれません。だから、祈ることを通して神様の前に進み出るのです。その時、神様との交わりが生まれます。人間の力や功績ではなく、神の国と神の義を求めるには、神様を抜きには不可能です。私たちが神の国と神の義を求めるときに、私たちが神様に頼り、神様からの言葉を聞いて教わることを神様はご存じで、私たちとの交わりを待っておられるのです。
今年、教会全体でも「神の国と神の義」ということを考え、また実践すると共に、一人一人が神の国と神の義を求めて、祈り、また王なる神の御声に聞き従うことを大切にし、それを他のこと以上に求めて行きましょう。
では、私たちは何を求めたら良いのでしょうか。「神の国と神の義」こそ、第一に求めることだと御言葉は語っています。神の国は、王である神様に従うことです。強いられてでは無く、自ら進んで神様のお声に従うしもべとなるのです。また神の義は、自分の正しさを主張するのではなく、神様の正しさの前に悔い改め、従おうとしてもできない自分の罪を赦していただくことも神様の御心にかなった祈りです。第二、第三と、祈ることはさらにあるでしょうが、第一のことを第一とするなら、他のことは神様が整えてくださいます。
それでも私たちの祈りがいつのまにか自分中心になったり、神様への信頼に欠けて不安に陥ることもあるかもしれません。だから、祈ることを通して神様の前に進み出るのです。その時、神様との交わりが生まれます。人間の力や功績ではなく、神の国と神の義を求めるには、神様を抜きには不可能です。私たちが神の国と神の義を求めるときに、私たちが神様に頼り、神様からの言葉を聞いて教わることを神様はご存じで、私たちとの交わりを待っておられるのです。
今年、教会全体でも「神の国と神の義」ということを考え、また実践すると共に、一人一人が神の国と神の義を求めて、祈り、また王なる神の御声に聞き従うことを大切にし、それを他のこと以上に求めて行きましょう。

キリストのからだのかしら
2022-12-01
千代崎 備道
また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。
(コロサイ人への手紙一章18節)
今年は「キリストのからだを建て上げるため」との標語を掲げ、キリストのからだである教会のことを考えてきました。「からだ」に例えられるような有機的な交わりが教会にとって大切ですが、同時にコロナ禍にあっては交わりを持つことが難しいという課題にも向き合ってきました。足らない面を補うように、祈りによって結びつき、またインターネットなどの最新の方法も取り入れてきました。困難な一年でしたが、教会成長の新しい可能性も垣間見ることができた一年でした。
しかし、私たちが教会を外面的なこととして捉えるのには気をつけなければなりません。人数という数字だけを追求することも、また教会員の満足という視点だけを顧みることも、教会を単なる人間の集合体としてしまいます。キリストのからだは、からだだけの存在ではなく、頭(かしら)が不可欠であり、そこに命の根源があります。
日本語でも「かしら」と「あたま」は同じ漢字を用いますが、聖書の言葉でも「かしら」は「あたま」を意味しますし、さらに「一番のもの」でもあります。キリストが教会のかしらであるとは、キリストが第一のお方だということで、私たちが第一ではないのです。また、身体が頭脳の命令に従うように、私たちはキリストの御声に聞き従うべき存在です。「お頭」と言うとリーダーのことですが、イエス様こそが私たちのリーダーであり、もし私たちが間違っているときは正しく導いてくださる羊飼いですから、私たちはキリストの言葉によって歩むのです。
「からだ」について御言葉から多くのことを学ぶことができましたが、身体だけに目を向けるのではなく、あらためて、かしらなるキリストに目を向けましょう。クリスマスは神の御子が人間となって生まれてくださったのですが、それは十字架で私たち全ての罪を背負って、私たちを救ってくださるためであり、さらに復活によって新しい命を与え、キリストのからだである教会の一員としてくださるためです。教会の営みの全てにおいて、キリストがかしらであり、また私たちの人生においてもキリストは主です。いつもかしらなるキリストに従う教会、また一人一人でありましょう。

生ける石となって教会を建てよう
2022-11-01
千代崎 備道
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。
あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。
(第一ペテロ二章5節)
今年の池の上教会の標語『キリストのからだを建て上げるため』は教会のことです。教会を現す例えとして用いられるのは、「からだ」以外にも「民」や「家族」のような人間的な交わりを示すものもありますが、「家」(家屋)も用いられます。「建て上げる」も家の建設をイメージしています。
キリストが使徒ペテロに「この岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ十六・18)と言われましたが、そのペテロが書いているのは、「自分だけではなく、あなたがたも石であり、教会を建て上げるものだ」ということです。昔の家は石を積み上げて作りました。キリストの霊が住んでおられる家は、私たち一人一人が積み重ねられてできているのです。その石の中でも一番大切な役目と言われる「尊い礎石」(第一ペテロ二・6)はイエス様ご自身です。
家の壁となっている石は、上の石から重さがかけられます。苦しさや痛みがあるかもしれません。でも、自分も下の石に支えてもらって、全ての重さは土台の石にのしかかります。池の上教会もキリストと御言葉の上に山根先生が最初の石を据えられ、その上に多くの先達が石を積み上げてくださいました。今、私たちもその石の一つとなって、さらに教会は成長していきます。誰一人として無駄な石はありません。誰かが欠けるなら、壁に穴が空いて隙間風が入ります。様々な色の石が組み合わさることで生まれる美しい模様は聖霊による芸術です。
「生ける石」という表現も不思議です。石は命の無いものだと私たちは考えます。私たちがキリストのからだであり、霊の家である教会の一員であるとき、私たちはキリストの命につながっています。それは永遠の命です。教会の歴史において、教会設立の時の方々は順に天に召されていきます。でも、キリストのからだの部分として、霊の家の石として、今も生きて働いているのです。ギリシア正教では礼拝堂に昔の聖人の絵を飾り、その人たちは今も一緒に礼拝をしている、と受け止めています。それは天国の前味わいでもあります。
地上での人生を送っている私たちも「生ける石」です。自分にピッタリの場所が教会にあって、そこに当てはまるときに、与えられた賜物が用いられ、周りの兄弟姉妹との関係も落ち着ける。一人一人が教会の一員なのです。
キリストが使徒ペテロに「この岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ十六・18)と言われましたが、そのペテロが書いているのは、「自分だけではなく、あなたがたも石であり、教会を建て上げるものだ」ということです。昔の家は石を積み上げて作りました。キリストの霊が住んでおられる家は、私たち一人一人が積み重ねられてできているのです。その石の中でも一番大切な役目と言われる「尊い礎石」(第一ペテロ二・6)はイエス様ご自身です。
家の壁となっている石は、上の石から重さがかけられます。苦しさや痛みがあるかもしれません。でも、自分も下の石に支えてもらって、全ての重さは土台の石にのしかかります。池の上教会もキリストと御言葉の上に山根先生が最初の石を据えられ、その上に多くの先達が石を積み上げてくださいました。今、私たちもその石の一つとなって、さらに教会は成長していきます。誰一人として無駄な石はありません。誰かが欠けるなら、壁に穴が空いて隙間風が入ります。様々な色の石が組み合わさることで生まれる美しい模様は聖霊による芸術です。
「生ける石」という表現も不思議です。石は命の無いものだと私たちは考えます。私たちがキリストのからだであり、霊の家である教会の一員であるとき、私たちはキリストの命につながっています。それは永遠の命です。教会の歴史において、教会設立の時の方々は順に天に召されていきます。でも、キリストのからだの部分として、霊の家の石として、今も生きて働いているのです。ギリシア正教では礼拝堂に昔の聖人の絵を飾り、その人たちは今も一緒に礼拝をしている、と受け止めています。それは天国の前味わいでもあります。
地上での人生を送っている私たちも「生ける石」です。自分にピッタリの場所が教会にあって、そこに当てはまるときに、与えられた賜物が用いられ、周りの兄弟姉妹との関係も落ち着ける。一人一人が教会の一員なのです。

不思議なキリストのからだ
2022-10-01
千代崎 備道
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
(コリント人への手紙第一・十五章44節)
パウロは復活について教えている中で、血肉のからだと御霊(あるいは「霊」)のからだの違いを語っています。イエス様のお体は、十字架以前は私たちと変わらない肉体(血肉)で、疲れることもありました。復活後は不思議なからだとなり、戸を閉じていても室内に入ったり、エマオからあっという間にエルサレムに戻ったりしておられます。十字架の傷跡もありつつ新しいからだとなったのです。
教会が「キリストの」からだと言うとき、単なる肉体とは違います。教会に限らず、どんな組織でも「からだ」のように様々な人が集まっています。またかしらであるリーダーが存在します。部分である手や足が力を合わせることで大きな力を発揮します。しかし、教会はそのような組織以上の存在です。かしらであるキリストが聖霊を遣わして、教会に、また私たち一人一人の内側に働いておられます。ですから人間の力を越えて神の御業がなされるのです。
パウロは、この不思議なからだを「御霊」のからだと表現し、復活について教えました。教会は復活の主のおられるところです。人間の肉体はいつか終わりが来ます。組織も時代と共に変化し、衰えることもあります。しかし教会は時代の波にもまれて倒れたように見えても、また立ち上がります。迫害により多くの信徒が殉教しても、また救われる人が起こされます。時代の思想によって信仰がゆがみ、暗黒時代となっても、内側から改革が起きて息を吹き返します。人間の組織であると同時に、キリストの生きておられる場所なのです。また、イエス様のお姿は今は私たちの目には見えません。キリストのからだなる教会も、目に見える個々の教会とともに、全世界を覆っている目に見えない教会があり、個々の教会はその大きな教会の部分部分となっています。また、キリストが世の終わりに再臨されるように、キリストのからだなる教会は時代を超えて永遠に存在します。なんと不思議なからだでしょうか。
私たちの教会も創立以来、多くの方を天国に送りました。しかし、それは人数が減ったということではなく、今も天国で証人として祈っておられ、先に行って待っておられるのです。ギリシャ正教では昔の聖人の絵(イコン)を飾り、共に礼拝していると信じているそうです。私たちも先達の方も、またこれからの教会を担う人たちも、心を合わせてかしらなるキリストに仕えてまいりましょう。
