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み言葉のいづみ

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主からの慰めを待ち望む

2021-11-01

千代崎 備道  

そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。

(ルカの福音書二章25節)


この箇所はよくクリスマスの翌週に語られます。生まれたばかりのイエス様がエルサレムの神殿に連れて行かれたのは、律法に書かれている儀式を守るためでした。その神殿でシメオンに出会います。彼はイスラエルが慰められることを待ち望む人でした。イスラエルはバビロン捕囚以来、ペルシャ、ギリシア、ローマの各帝国に支配され、時には迫害を受けてきました。多くの人が犠牲となり、長い間の苦しみと悲しみは簡単には癒やされないほどです。ある人たちは征服者を軍事的な方法に追い出して独立を取り戻すことを目指しましたが、それで失われた人々が戻るわけでもなく、また力で解決するなら再び力で報復されます。ある人たちは宗教的な熱心さにより心の満足を求めましたが、努力はできても不完全な人間ですから、他者を批判することで自己満足をしていました。しかし、それらの間違った方法では本物の慰めとはなりません。
イスラエルの苦悩は、彼らが神様に背いて偶像礼拝の罪を犯すようになったからです。ですから、他国との関係が変わっても、神様との関係が正しい姿にならなければ、いつまでも慰めは無い。イスラエルの慰めを待ち望んでいたシメオンに、神様は救い主に会わせると約束されました。「主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた」(26節)。その通りに、シメオンは幼子イエス様に見て言いました。「私の目はあなたの御救いを見たからです。・・・異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの栄光です」(30~32節)。神様が救い主を送ってくださり、イスラエルを罪から救ってくださる。それだけでも大きな慰めですが、さらに異邦人にまで光が照らされる。シメオンは大きな慰めを感じたのでした。
神様が必ず救ってくださると信じて待ち望んでいたシメオンが慰めを受けたように、今、私たちも大きな苦難や、また一人一人が悲しみや苦しみを受けている中で、でも神様を信頼して慰めを待ち望むとき、神様は人間が考える以上の祝福を備えておられ、時が満ちたなら慰めを与えてくださるのです。この素晴らしい恵みは、次にキリストがおいでくださる再臨の時まで続いています。コロナ禍が収まり、また喜びを持って交わりを持ち、もっと多くの人たちにキリストの救いを伝えていくときが近づいています。希望を失わず、信仰をしっかりと握って、主を待ち望み続けましょう。

この神様に期待して待つ

2021-10-01

千代崎 備道  

神を待ち望む者のために、このようにしてくださる神は、あなた以外にとこしえから聞いたこともなく、耳にしたこともなく、目で見たこともありません。

(イザヤ書六四章4節)


預言者イザヤはエルサレムで神からの言葉を語りました。御言葉が語られても耳を貸そうとしない民に、彼は失望することもあったでしょうが、神様だけを信頼し、神様に従い続け、その結果、イスラエルが滅びるまで語り続けなければなりませんでした。イザヤの死後、やがて預言の通りにイスラエルはバビロンによって滅ぼされ、エルサレムの町も神殿も破壊されます。でもイザヤははるか先の時代に神様がエルサレムを立て直し、救ってくださることを神様に示され、その希望をイザヤ書の後半で語っています。今年の教会標語となったイザヤ書四十章31節は、その希望のメッセージの最初の方に書かれています。そして、冒頭の御言葉は、その希望のメッセージの最後に近い部分で語られた言葉です。
神に背き、警告の言葉にも心を頑なにして拒んだイスラエル。滅びるべくして滅んだ民が、完全に滅んでしまったあとで、再び立ち上がる。それは人間的には考えられないことです。他の何者にもできない。ただ神様にしかできないことだと語っています。「主を待ち望む」とは、天地万物を創造された全知全能の神様だからこそ可能のことを期待することです。人間の努力でできることなら、私たちは神様に期待を抱くこともないでしょう。でも、自分の力ではできない、誰も助けることができない、人間の無力さを痛感したとき、それでも不可能なことはないお方に信頼して、神の時を期待して待つ。それが「主を待ち望む」ことです。
一年半を超えるコロナ禍にあって、私たちは疲れ果てています。以前だったら自分の力でどうにかできると思っていたことが、できなくなっていることもあります。だからこそ、神様を信頼し、神様に期待する。この信仰を学ぶ機会でもあるのです。神様に目を向けざるを得ない状況の中で、御言葉を通して私たちの心に声をかけて、神様へと顔を向けるようにしてくださっているのです。誰とも会えない、なかなか話ができない。でも神様はいつでも私たちと会ってくださり、祈りに耳を傾け、見守っていてくださる。こんな素晴らしい神様が私たちにも声をかけて、待ち望むことを教えてくださっているのですから、どんな状況に置かれているとしても、なお、このお方に期待して祈り続けましょう。

三年目の収穫を待ち望む

2021-09-01

千代崎 備道  

 
あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
(イザヤ書三十七章30節)
 
ヒゼキヤ王の時代にアッスリヤ帝国がユダ王国を攻撃し、多くの町々が攻め落とされ、遺されたエルサレムも大軍に包囲される、という事件がありました。神様は預言者イザヤを遣わしてヒゼキヤを励まし、主を信頼するなら必ず救われることを預言し、冒頭の御言葉を語らせました。戦争のために農業が出来ず、収穫が無いことを心配する人々に、神様は刈り入れ損ねた落ち穂から生えたものを食べて生き延びることができると告げました。三年目には再び種を蒔いて収穫をし、またブドウ畑も実を結ぶようになるのです。
昨年と今年は、コロナ禍のために多くの教会は伝道活動を制限され、礼拝を守ることも困難でした。種蒔きが出来なければ収穫は望めません。低調だった教会成長はさらなる打撃を受けた。誰もがそう思うでしょう。ホーリネス教団も昨年延期となったユースジャム(全国青少年大会)をオンラインで開催しました。画面越しの難しさもあり、決心者も多いとは言えませんでした。特に献身者が多く起こされて牧師不足が解消されることを願っていましたが、期待通りにはなりませんでした。このまま、救われる人も牧師になる人も起こされないのでしょうか。
神様が御言葉の種を蒔かれると、「地は人手によらず実をならせる」(マルコ四28)と書かれているように、私たちの目には見えないところで芽を出し、何年かかっても成長し結実に向かいます。牧師が遣わされて一年目に受洗者が起こされるとしたら、それは以前からの働きの実でもあり、何より神様の御言葉が生きて働いたからです。去年も今年も、受洗者が起こされたのも、何年も前からの種蒔きや水遣りがあったからです。そして、この二年間も、たとえ目に見えるような形での伝道(特伝やコンサートなど)が出来なかったとしても、隠れたところで御言葉は蒔かれ続けています。
まだ来年のことを話すのは早すぎます。コロナ禍がどうなるかは分かりません。でも三年前からの落ち穂が結実し、三年目には「ぶどう畑を作って」とあるように、新しい働きも始めることを目指してまいりましょう。また、お一人お一人も、日々御言葉の恵みをいただいて、御霊の実をみのらせましょう。何より、収穫の主に期待し、待ち望みましょう。

疲れている時に

2021-08-01
千代崎 備道  
 
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまづき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、・・・
(イザヤ書四十章28~31節)
 
階段を駆け上ったり、少し速足で歩くだけで、息が切れ、疲れを覚えるようになったのは、コロナ禍で運動不足であり、いつもマスクをしているために酸素不足なのだ、と自分の老化を否定しています。冒頭の御言葉は今年の教会標語の前の部分で、元旦礼拝でも少しお話したと思います。若者も疲れ、若い男(口語訳聖書では「壮年」で、一番力の出る年齢)も倒れるのだから、自分が疲れたり、躓くことがあっても不思議ではない。でも、神様は疲れるようなお方ではない。ご自身が疲れないだけでなく、疲れた者には力を与えることさえおできになる。このお方を信頼し、自分の力により頼むのではなく、神様がやがて助けてくださることを信じて待つ。これが今年、私たちに神様が約束してくださったことです。
イザヤ書の中では何度か「あなたは知らないのか、聞いていないのか」という問いかけがあります。知っているかどうか、を質問しているのではありません。意訳をするなら、「あなたがたはもう聞いていたはずだろう。だから思い出しなさい」と訴えているのです。私たちは神様が地の果てまで、世界中を創造されたお方であり、年老いて衰えることのない、永遠の神であることを知っています。私たちの知恵をはるかに超えた全知全能の神は人間の常識では測り知れないほどの英知をもっておらえると分かっています。でも、自分の力ではどうすることもできない苦難に遭い、困難が長く続くと、自分と同じように神様も疲れ果てておられると思ってしまうのでしょうか。御言葉は私たちに思い出すように語りかけています。このお方を信頼し、希望を持とう、と。
酷暑の中で疲れている方、また、九月になって涼しくなると夏の疲れが一気に出てくる方もおられるでしょう。また先の見えないコロナ禍に心も疲れ果ててしまいます。でも、自分が疲れたとき、その時こそ、疲れることのない神様への信仰を思い起こし、希望をもって祈りましょう。神様からの新しい力をいただくとき、この困難を乗り越える者とならせていただけるのです。

慣れないために

2021-07-01
千代崎 備道  

私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
(ヨブ記四十二章5節)

人間は大抵のことに慣れてしまうものです。夏の暑さの中でマスクをすることにも二年目になって慣れている自分がいます。教会堂に入ったら、まず体温を測り手指をアルコール消毒することも、流れ作業のように自然とするようになりました。店に出入りするときも消毒、帰宅したら手洗いとうがい。新しい日常が普通となっているようです。悪い意味でも慣れてしまい、マスクや消毒の意味を忘れると、形だけになります。感染防止には役立っているのですが。
クリスチャンとして慣れてしまってはいけないのは、神様の恵みです。神様は毎日、毎年、様々な恵みを私たちに注いでおられますが、それに慣れてしまうと感謝をしなくなり、少しでも不足があると祈りよりも不満が出て、やがて恵みを与えてくださった神様から心が離れてしまいます。旧約聖書のイスラエルがそうでした。出エジプトの救いに与り、必要な水や食料は与えられていたのに、彼らはいつも不平不満で、御言葉に背き、神様に背を向けていたのです。
「恵み」という言葉はヘブル語で「ヘセド」ですが、神のヘセドに感謝してそれに応えようとする人たちのことをハスディーム、ある日本語訳では「聖徒」と呼んでいます。私たちは神様の恵みによって救われ、聖なる神様のものとしていただいた聖徒です。いつも恵みに応答することがあるべき姿です。そのためには恵みに慣れっこになるのではなく、恵みに敏感な心を育てることが大切です。恵みとは神の愛の現れです。人間同士の愛を確認するときに贈り物をすることがあります。プレゼントも慣れっこになり当たり前になると嬉しさを失いますが、贈ってくださった方の心遣いを思うときに感謝が生まれ、相手への愛も増し加わります。神様の恵みに気がつくなら、神への愛も成長するのです。
ヨブは神からも義人と認められる立派な人でした。定期的に犠牲を神に捧げ、それでよしとしていましたが、試練に遭ったことを通して神様との生きた関係を知ったのです。人から噂で聞いて知っているレベルから、自分の体験を通して見えない神様を「見た」のです。私たちも特別な経験や聖会などの特別な集会を通して神の恵みをあらためて確認し、神の愛を今まで以上に深く知るなら、さらに神への信頼が増し加わり、どんな苦難の中でも主を待ち望み、希望を持って生きることが出来るのです。

宗教法人日本ホーリネス教団
池の上キリスト教会
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