み言葉のいづみ
神に従ったキリストによる救い
(ヘブル人への手紙十章7節)
子なる神が人間となってこの世に誕生されたクリスマスは、旧約聖書のあちこちに預言されています。ベツレヘムで生まれること、アブラハムの子孫であること、ダビデ王の子孫としての王であること、など、預言は多岐に亘っています。その中でも霊的な存在であるお方が人間の肉体となられること(専門用語では『受肉』)は、全能の神でなければ不可能な、最も不思議な「奇蹟」です。この受肉の預言を説明しているのが、ヘブル書十章5~7節で、詩篇四十篇からの引用です。イエス様が人間となられたのは、父なる神の御心を行うためであり、それが十字架です。
父なる神は人間を救うために、また子なる神であるイエス様は人間の罪を背負って十字架で死なれるため、受肉が行われた。それは神にとってどれほどの痛みであったでしょうか。イエス様が聖書に記された御言葉に従って地上に来られ、ゲツセマネの園で血の汗を流すほどの苦しみの祈りをなさり、十字架で最後まで贖いの救いを全うされたことが、どれほどの犠牲を伴う服従であったか、私たちにはその一端しか理解出来ないほどなのです。
「おことばどおりこの身になりますように」というマリヤの従順に倣う一年を過ごす内に、私たちの従順も献身も、マリヤにも届かないものでしかないと気が付かされます。もし私の信仰や従順によって神様が救ってくださるとするなら、救われるには何と不足だらけなことでしょう。聖餐式で読まれる式文の中に「何のいさお(功績)の無いままに神の子とし」と書いてあるとおり、救われたのは私の功績でもなければ、私の従順や信仰でも無いのです。ただ神様の憐れみと恵みによることを忘れてはならないのです。
神様の御言葉に対する私の従順は全くの不合格です。信じて従おうと思っても何度も失敗します。従おうと思う前に、自分の思い通りにしたいという自己中心が従順を覆い隠してしまいます。でも、イエス様の従順は完全です。パウロが「十字架の死にまでも従われました」(ピリピ二・8)と書いているとおりです。このイエス様の御言葉への従順、聖霊が書かれた聖書への真実さ、それが私たちを救うのです。従えなかった自分を認め、キリストの従順と真実にすがり、主の助けをいただきながら従う者にしていただきましょう。
