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み言葉のいづみ

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神の目には見えている

2010-07-01
千代崎 備道

神の人の召使いが、朝早く起きて、外に出ると、なんと、馬と戦車の軍隊がその町を包囲して
いた。若い者がエリシャに、「ああ、ご主人さま。どうしたらよいのでしょう」と言った。
すると彼は、「恐れるな。私たちとともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだか
ら」と言った。そして、エリシャは祈って主に願った。「どうぞ、彼の目を開いて、見えるよ
うにしてください。」主がその若い者の目を開かれたので、彼が見ると、なんと、火の馬と戦
車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた。
Ⅱ列王6章15~17節
 
  預言者の家は敵軍に囲まれていましたが、信仰の目で見ていたエリシャは、必ず神が守って
くださると信じ、恐れませんでした。信仰によって考えられない若者は恐れましたが、神様は
彼の心の目を開いて、神の目には何が見えているかを教えてくださいました。彼らを守ってい
る者は敵軍よりも多かったのです。
  私たちは自分の目だけで物事を判断する傾向がありますが、人間は知識も経験も不完全なも
のですから、間違った見通しを立ててしまいます。しかし、全知全能の神様は、人間的にはど
れほど不利な状況でも、不可能に思えることでも、神様の目には有利であり可能なこととして
見えているのです。信仰の目とは、その神様からの御言葉を信じ、神様を信頼して判断するこ
とです。
  パウロは救われた人々が、今はどうであれ、やがてどのようになっていくか、信仰をもって
見ていました。「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじ
め定められたからです」(ローマ8・29)。問題だらけだったコリント教会に対しても、
「私たちはみな、・・・栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」
(第2コリント3・18)と期待をしています。彼はガラテヤの人々の成長を願い、どれほど
の苦労も厭わないと告白しています。「あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は
再びあなたがたのために産みの苦しみをしています」(ガラテヤ4・19)。
 
  私たち一人一人が、これからどのように成長し、変わっていくのか、神様の目には見えています。だから、愛
 
を注ぎ、聖霊を与えてくださるのです。また教会がどのように主の栄光を現していくのか、楽しみにしていてくだ
 
さいます。私たちは自分の限られた考えで、限界を定めてしまうのではなく、主の見ておられる姿を幻に描きつ
 
つ、前進して行きましょう。

神の言葉による幻

2010-06-01
千代崎 備道

みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
詩篇119・130

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。
 
(同・口語訳)
 
  聖書の中で「愚かな者」とは、頭が悪いということではなく、神を恐れない者のことです。
知恵の始まりは神を恐れること(箴言1・7)だからです。そして、神からの知恵は、御言葉
を通して与えられる、と詩篇は教えています。では、どのようにしたら知恵が与えられるので
しょうか。
  聖書を読んでいて、分かっているつもりだったのに、他の時にもう一度読むと、以前には気
が付かなかったことを教えられることがあります。前回に読んだときは分かっていなかったの
だろうか、と思わされることがよくあります。神の言葉は人間の能力によって理解できるので
はなく、神様が理解させてくださって初めて「ああ、そうだったのか」と分かることが出来る
のです。それが「御言葉が開ける」体験です。それまでは自分の経験や常識、知識といったも
ので聖書の言葉を判断してきました。ところが、神様が御言葉の光を与えてくださるときは、
今までは考えてもみなかった真理を示されるのです。それが「知恵」であり「悟り」なので
す。それは、頭の「目」では見えなかったものが、信仰の「目」で見えるようになった、とい
うことです。それは幻を見るようなものです。
  幻とは、人間の理解の積み重ねによる未来の予測ではなく、神様が与えてくださる新しい展
望です。信仰生涯も教会も、神様が導いてくださるとき、それまでは想像もしていなかった新
しい世界に向かって前進することができます。御言葉によって目が開かれ、昨日までとは違う
見方で物事を見るようになること、それが御言葉による幻です。
  ルターは「義人は信仰によって生きる」(ローマ1・17)との御言葉により、宗教改革を
始めました。パウロは体の悩みを訴えて祈っていたとき、「わたしの恵みは、あなたに十分で
ある」(Ⅱコリント12・9)との御言葉により、それまで重荷だったことが神の恵みとなっ
たのです。それまでの考えにとらわれるのではなく、御言葉に基づいて考え、行動する。それ
が主にある新しい人生であり、主の働きを進める教会なのです。御言葉が光を放ち、新しい幻
を示していただきましょう。

ペンテコステから始まったこと

2010-05-01
千代崎 備道

  五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹い
て来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が
現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてく
ださるとおりに、他国のことばで話しだした。
使徒の働き 2章1~4節
 
  五旬節とはギリシャ語ではペンテコステで、イースター(旧約聖書では過ぎ越し祭)から七週間後、五十日目
 
のことです。ユダヤ教では収穫期の終わりにあたって豊かな実りを感謝する時でした。その日に、弟子たちの
 
群れに聖霊が下られて、教会による宣教の働きが始まったので、キリスト教では教会の誕生日として、クリスマ
 
ス、イースターと並ぶ、大切な日とされてきました。
 
  それまでは捕らえられることを恐れて隠れていた弟子たちが、彼らの上に聖霊が下られて以来、大胆に語り
 
始めたのです。最初のペンテコステでは、特別なしるしをもって聖霊が下られました。それは様々な他国語で
 
語り始める、という奇跡で、それにより世界中の国々からやってきた巡礼者たちが自分の日常生活語で神の
 
救いを聞くことが出来ました(11節)。この日から、ただの人間の集まりだった弟子たちが、愛と力と聖さの満ち
 
る教会となったのです。
 
  同じ聖霊が、今、私たちにも臨んでおられます。イエス様を信じたとき、いえ、その前から聖霊は私たちを助け
 
ておられました。そして、聖霊の助けにより、私たちは祈ることができ、御言葉を理解することが出来ます。ま
 
た、様々な人が集う教会が、キリストの体として一体となるのも、聖霊の働きです。人間的な思惑ではなく、主
 
への愛と仕える思いで、私たちは一致することができるのです。また、この聖霊は、弟子たちに対してそうであ
 
ったように、私たちも証し人とします。言葉や行いによる証しや、教会にお誘いすることで、それによりキリストが
 
伝えられ、救われる人が起こされ、主の栄光が現されるのです。
 
  恐れや弱さを感じておられるなら、助け主である聖霊が私たちに、必要な力を注いでくださり、信仰を強め、祈
 
りに導いて下さいます。そして、証し人、また奉仕者として、主のために用いてくださるのです。御言葉を通して
 
語りかけてくださる聖霊の声に聞き従い、実り豊かなクリスチャンとしていただきましょう。

復活の主のビジョン

2010-04-01
千代崎 備道

  そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。
  「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえ
り、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の
人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」

ルカの福音書 24章45~48節
 
  復活の主を見た弟子たちは、最初は霊か幻を見たと思ったようです。しかし、手足に触
れ、会話をするうちに、主が事実よみがえられたことを受け入れるようになりました。その
弟子たちにイエス様は世界宣教のビジョンを伝えられたのです。
  幻や夢というのは、不確かなものと思われています。人間の思いは罪に支配され。自己中心なことを夢見るために、願ったとおりにはならないことが多いからです。しかし、神様の幻は違います。神様は考えたとおりに事を行い、語られたことが事実となっていく力を持ったお方だからです。世界が作られる前から人間の救いを計画され、その計画を言葉により実現させて来られたことを聖書は告げています。
  旧約聖書の預言が十字架や復活で成就したように、イエス様が弟子たちに残していかれた宣教の幻は、世界中に救いの恵みが伝えられることで実現していきました。そして、それは今も続いているのです。
  教会の幻は、教会の主であるイエス様のご計画の中に置かれています。イエス様の幻から外れて、自分勝手な願いをビジョンとして掲げるなら、それは水泡に帰します。救いがあらゆる人に宣べ伝えられる、という大きな幻の中で、私たちの教会も、また私たち一人一人も導かれているのです。自分の救いだけに留まるのではなく、家族の救い、周囲の人の救い、そして教会の働きを通してさらに多くの人が救われることを願い、夢に描き、祈る。そのとき主イエスの幻と私たちの幻とが一致するのです。
今年のイースターで二人の方が受洗の恵みに与られたことは、この幻の実現です。私たちは、
さらなる奇跡を願い、祈りましょう。神様がお一人お一人に与えておられる幻と祈りが、一つ
にまとまったとき、大きなビジョンとなり、それが教会の幻となるのです。一人だけで祈って
いると弱気になることもあります。心を合わせて、一緒に祈りましょう。

十字架を決して忘れない

2010-03-01
千代崎 備道

  私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生
 
きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神
 
の御子を信じる信仰によっているのです。
 
  私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味
 
です。
 
(ガラテヤ2章20節~21節)
 
  パウロはガラテヤのクリスチャンたちに、十字架による救いの大切さを必死で訴えています。彼らがそれを
 
  忘れかけていたからです。「十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり
 
示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか」 (ガラテヤ3章1節)。
  パウロはガラテヤ地方に宣教したとき、何度も繰り返して十字架の話をしたのです。聞いていた人々は目の
前に十字架が見えるほどだったのでしょう。聞き飽きたと思う人がいたかもしれません。
  しかし、十字架を忘れた時、彼らは律法主義に陥りました。信仰による救いではなく、行いによる救いという
間違った教えに染まって行ったのです。もしパウロが彼らの目の前に描いた十字架の姿を覚えていたら、もしそ
の十字架でイエス様が命を賭けて救いの道を開いてくださったことを忘れていなかったら、間違った教えに惑わ
されることはなかったはずです。
  私たちは十字架の恵みを忘れてはいないでしょうか。私たちが救われたのは、良いことをしたとか自分が偉い
からではなく、徹頭徹尾、恵みによるのであり、十字架の贖いによるのです。十字架を目の前に見ていないと
き、不満や不信仰に陥ってしまいがちです。
  今年も十字架と復活を覚える季節となりました。またこの時季だけでなく、十字架のメッセージは毎週のよう
に語られます。それは、決して忘れてはならない大切なことだからです。 パウロのように、キリストとともに十
字架に死に、キリストの命に生きるために、今年も十字架の恵みを確認し、感謝しましょう。
  しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。
この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。
 
(ガラテヤ6章14節)
宗教法人日本ホーリネス教団
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